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【百年ニュース】1921(大正10)11月4日(金) 総理大臣の原敬が東京駅丸の内南口コンコースで大塚駅転轍手の中岡艮一に襲撃され殺害された。享年65。午後7時25分群衆から突進してきた中岡が短刀で原の右胸に突き刺しほぼ即死であった。現在に至るも中岡の動機は解明されておらず謎が残された。

現役の内閣総理大臣、原敬が東京駅丸の内南口コンコースで大塚駅転轍手の中岡艮一こんいちに襲撃され殺害されました。享年は65歳でした。原首相は翌日京都で開催される政友会近畿大会に出席する予定で、東京駅を午後7時30分に出発する列車に乗るため、高橋善一よしかず駅長の先導により改札口に向かっていました。そして午後7時25分群衆から突如飛び出して突進してきた中岡が短刀で原の右胸に突き刺しました。ほぼ即死でありました。

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中岡は大塚駅の日給の転轍手でした。転轍というのは線路のポイントを切り替えて列車を線路に誘導する作業のことです。現在に至るまで中岡の背後や動機は解明されておらず謎が残されています。しかし皇太子裕仁親王と良子女王の婚約問題が原因のひとつであるとの考えが有力です。原に脅迫状が届くようになったのは、右翼の運動により婚約続行が決定されたこの年の2月11日の紀元節の頃だからです。原敬はその情勢のなか2月20日に遺書を書いています。不測の事態発生を予期させるものがあったのでしょう。

原敬の突然の死は日本全国に衝撃のニュースとして伝わりました。また卓越した政治家として日本の外交を指導し、将来は元老として日本の政策を適切に指導したはずの原を失うことで、日本は暗い戦争の道を歩みだすこととなってしまいました。

原の死によって、大きく三つの可能性が失われた。一つ目は、すでに述べたように、政党内閣が軍と宮中の統制を十分に行えるようにする立法の可能性である。

二つ目は、政党改革の可能性である。原は政友会を、腐敗が少なく、公共性推進の役割を果たすものに改革していこうと考えていた。しかし、1920年代半ば以降、政党政治が展開するようになると、二大政党である政友会と憲政会(後身の民政党)は、政権を取ると権力対立をむき出しにし、反対党の政策を否定した。さらに権力を利用して金銭の収賄を図り、政権を失うとその事実を暴露された。そうして政党は腐敗したもの、というイメージを互いに広げていった。こうして政党内閣の権力の正当性が減退し、軍部が台頭する有力な原因の一つとなっていった。

三つ目は、昭和天皇が適切な助言者を得られた可能性である。原自身は妻あさに、「元老だけはまっぴらだ。そんなもんにはならんさ」と言っていたという。しかし原の性格から判断し、山県・松方が死去し、西園寺が唯一の元老として、未熟な政党政治を軌道に乗せようと尽力しているのを放任できるはずがない。原が元老になれば、大正天皇の崩御により、25歳で即位した政治的に未熟な昭和天皇にとって、原は、もっとも円熟した有力な助言者になるはずであった。昭和初期に昭和天皇は、張作霖爆殺事件への対応(1929年)、ロンドン海軍軍縮条約に関わる上奏聞き入れ拒否(1930年)、満州事変に関わる日本軍の独断越境への対応(1931年)と、立て続けに政治的に不適切な行動を選んでしまった。これは、元老西園寺が高齢で、身近に仕える宮中側近が原ほど円熟しておらず、天皇への助言が不適切だったせいである。その代償は大きく、軍部の不信を買い、彼らへの統制力を形成することに失敗した。

以上の三つが発端となって、満州事変の拡大、日中戦争からアメリカやイギリス等も敵に回したアジア・太平洋戦争への道が開かれていく。その過程で、原が重視した日米関係は、とりわけ1937年以後、極めて悪化していくのである。原の葬儀は、健全なる日本外交と政党政治の発展にとって、落日への道の始まりだった。

伊藤之雄『真実の原敬』講談社現代新書,2020,254-256頁

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