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【百年ニュース】1920(大正9)12月23日(木) 後藤新平東京市長の新体制スタート。助役には後藤側近の3名(永田秀次郎,池田宏,前田多門)就任。のち永田は東京市長となるが,1932(昭和7)ロサンゼルス五輪で銀メダルだった前畑秀子に「なぜ金メダルではなかったか」と発言。前畑は発奮,4年後に金メダル獲得。

東京市は道路疑獄事件で市長,助役,参事全員が辞任するという異常事態だった。新市長に就任した後藤新平は側近3名を助役に建て直す。永田・池田・前田は全て「田」の字があるが、後藤は「田に任せれば宜しい」の意味で「畳」と呼んだ。畳は後藤の期待に応え多くの仕事をした。

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永田秀次郎

後藤(新平)は大正9年12月、東京市長に就任した。11月、市長の田尻稲次郎が疑獄事件の責任をとって辞職し、そのあと市会が後藤をほぼ満場一致で市長に推したのであった。しばらく雌伏していた後藤は、ここに再び政界を賑わしはじめる。

後藤の側近たちは、首相候補の後藤が東京市長になることには絶対反対であった。とくに東京市政は伏魔殿と呼ばれ、利権と党争の錯綜するところであった。しかも市長の権限は著しく制約されていたため、これまで大臣級の多くの政治家が傷ついていた。ところが後藤はこの地位に大正12年4月までとどまることになる。

なぜ後藤はこの地位を受けたのか。それは東京の中に日本の直面する問題が凝縮されていたからであった。デザインを描いたままズルズルと膨張した市街は、およそ文明国の首都にふさわしくないものであった。台湾と満州で欧米に劣らぬ都市を建設した後藤ほど、このことを痛切に感じていたものはなかったかもしれない。

東京でも後藤はまず自己の影響下にある永田秀次郎(貴族院議員,元内務省警保局長),池田宏(内務省社会局長),前田多門(内務省参事官,都市計画局長)の三名の有力者を助役に起用することから始めた。それまで助役は、市長の党派関係を配慮しながら、古参職員の中から選ばれてきた。そこに、後藤の人脈の中から、実力に定評のある人物をまず起用したのである。それまでの東京市政から見ると、これだけでも画期的なことであった。

人材獲得のため用意した待遇も、前例のないものであった。後藤はそれまで市長が年棒15,000円、助役は三人合計で23,400円であったのを、市長25,000円、助役を三人合計37,000円へと大幅に引き上げ、そのうえで自らの年棒は全額市に寄付した。こうして助役の年棒は50%以上引き上げられたが、全体では2,000円の節約となった。これをスタンドプレーとして不快に感じるものはあるだろうが、有能な人材に費用を惜しむべきではないとするのは後藤の一貫した信念であった。

北岡伸一『後藤新平』中公新書,1988,192-194頁

後藤新平

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永田秀次郎2

池田宏

前田多門

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