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【百年ニュース】1921(大正10)1月10日(月) 故枢密院副議長の芳川顕正1年忌。麻布宮村町67(現港区立南山小学校)の本邸にて。喪主は婿養子の芳川寛治。寛治は曾禰荒助次男で顕正の四女鎌子と結婚も寵妾と放蕩激しく,鎌子が心中未遂(千葉心中)。この醜聞により顕正が枢密院副議長を辞任する騒ぎとなった。

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芳川顕正

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1917(大正6)3月7日芳川鎌子(27)はお抱え運転手倉持陸助(24)と千葉市富士見で列車に飛び込み心中を図るも一命を取り留める。倉持は近くの土手で短刀で自殺。1918(大正7)に鎌子は再びお抱え運転手出沢佐太郎と恋仲となり出奔,横浜で暮らした。父芳川顕正は二人に仕送りを続け経済的に援助した。

しかし1920(大正9)1月10日に父芳川顕正が死去し,婿養子の芳川寛治(鎌子の夫)が伯爵を襲爵すると,芳川家から鎌子への仕送りは途絶え,鎌子と出沢佐太郎の二人は生活に困窮するようになる。1921(大正10年)4月17日,鎌子は腹膜炎のため31歳の若さで病死した。

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03芳川鎌子2

04芳川鎌子3

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