安克昌さん『心の傷を癒すということ』

 阪神・淡路大震災で被災された方々の心の声に耳を傾けた精神科医、安克昌さんの文章が心に響く。震災後の活動をめぐる丁寧で精確な語りは、この流動的で落ち着かない状況にも確かな言葉を届けてくれる。

 震災後の気分の落ち込みや高揚の激しさは、「その人の精神力が弱いからではなく、人間としてごくあたりまえのこと」であり、「異常な状況に対する正常な反応」であるということをまず明確化する(61頁)。体験を分かち合う相手がいない孤独感、生活が立ち行かなくなるのではないかという焦燥感、そしてなにより「補償や財産やローンなど、難しい問題が続出する」なかでの不公平感が増してくる。他人と自分を比較し、自分の方が劣っていて尊重されていないと感じられることも多くなる。

 避難所から仮設住宅や新居に移ることは、ひとりひとりが安心して暮らしていくために不可欠だけれども、それがなかなか難しい事情が詳細に綴られていく。「避難所をなかなか離れられない人たちは、将来に不安を持ち、行政の対応に怒りを感じ、復興を急ぐ世間からの批判に傷ついていた。あせりとあきらめの中で、ただ事態が好転するのを待たざるをえないのだった」(162頁)。移り住めた人と移り住めない人、補償にこぎつけた人とそうでない人との分断が広がり、すでにあった格差や貧困が顕在化していくことは、震災だけでなくさまざまな危機的な状況にもあてはまる。

 生き方や考え方の変化についての記述も示唆的である。「つまり震災という強烈にリアルな事態と出会ったことによって、その人は今まで当たり前だった物質生活や家族関係を、別の目で見ることになった」(174頁)。その視点は、私たちの生活がどのような食事や家事や仕事や余暇に支えられていたか、そして自分の人生を成り立たせている価値観や世界観を問い直すことをやさしくうながす。

 「心のケアは、誰もひとりぼっちにさせないということ」というNHKのドラマの主人公(柄本佑さん主演)の言葉が身に沁みる。中井久夫さんの序文にも、信頼と共鳴に裏打ちされたあたたかさが滲み出ている。身近な地域や自然に根ざした暮らしを大切にしていくために、そして関係の実質を深めていくために生涯の糧となる本だと感じた。

 角川文庫、2001年。作品社初版、1996年(新増補版、2020年)。

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