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分からなかった人のための”草原の実験”

"草原の実験"は2014年のロシア映画で、 同年の東京国際映画祭コンペティションで最優秀芸術貢献賞を獲得している。セリフのない無言劇であることが特徴で、それ故に難解を感じたり鑑賞を楽しめなかった人も多いようだ。映画から何か心に残るもの…例えば教訓や共感を得たいという人は多い。そういう人たちにとって、一切の会話がない映画は説明不足なのかもしれない。

セリフがない代わりに、この映画には目の奥に刺さってくるようなカットが要所要所に散りばめられている。映画のカットというより写真のショットに近い。あるときは神秘的であり、あるときは微笑ましく、あるときは不安を感じる。そして全編を通じて画面は美しい。なのであまり話のスジにとらわれずに、雄大な風景や美しい少女、意味不明な大道具や不思議な分かれ道など、ひとつひとつの絵を楽しんで見ていくことをおすすめする。小説のようにドラマを追いかけるのではなく、詩のようにひとひとつのセンテンスの間を想像していくような感じだ。ただし、この映画が原爆実験を題材にしていることを頭に入れながら。なお、原題のIspytanieは「実験」を意味する。

ここからはネタバレ。

じわっとあとからくる。観終わってから脳裏に残っている絵が鮮明なのだ。そしてその絵の解釈が自分の中で進んでいきそれぞれが繋がっていくと、思いがけないほどリアルで非情なできごとが見えてくるのだ。その欲に駆られて、さらに過去の資料を弄ってしまう。

この映画を読んで想像したことと史実。

冒頭の羊は何だったのだろう。父はなぜ羊をトラックに載せていたのだろう。恐らくあの羊は実験動物なのだ。ソ連の原爆実験の資料を探すと、彼らが動物の飼料に放射性物質を混与えて、その影響を調べていたという記述がすぐに見つかる。多分、父は仕事場から実験動物をくすねてきたのだ。食用目的であることは、羊の足を縛っていたロープを切ったときの包丁で想像できる。この羊は父の運命そのものを予言しているようにもとれる。

※セミパラチンスク核実験場の実験動物に関する記述

羊の謎が解決すると翼のない飛行機の役割も想像できる。あの飛行機はAn-2E Wigというソ連の輸送機だ。朝鮮戦争まで使われた機体だが、複葉機を大型のデルタ翼機にリメイクしたもので、レシプロ機ファンの多くが知っている飛行機だ。垂直尾翼も壊れている飛べないあの機体は、原爆による破壊実験のサンプルなのだと思う。父の仲間が運搬作業中に立ち寄ったのだろう。ファンタジックな絵作りがされているため、あの飛行機の将来の悲劇を想像できないのだ。

飛行帽をかぶる父は元飛行機乗りなのだろう。エンジンの始動ができる。翼を失った飛行機は、同じく核実験の犠牲になる父そのものなのだ。彼は恐らく核物質(ウラン鉱か劣化ウランか…詳しくないのでわからないが、持っているだけで被爆する箱入りの塊)を盗み出して体調を壊し寝込む。そこに当局が追いかけてきて雨中のガイガーカウンター騒動となる。彼らはしっかり羊まで計測している。ちなみにカザフスタンのウラン埋蔵量は世界で第2位だ。

父の被曝はこのシーン以前に暗示されている。夕陽を口に入れて無邪気に笑う印象深いシーンがそれだ。腹まで計られた彼はひょっとしたら、実際に放射性部質を口にしたのかもしれない。自宅で死ぬために戻ってきた父。彼は空軍のパイロットだったのだろうか。娘は赤い糸で星形を作り墓標にする。父はソ連そのものなのかもしれない。ラストシーンで遺体が爆風に掘り起こされるのが不気味だ。

娘が父に見せようとしたのは、郵便配達に受け取りのサインをさせられた手紙。郵便受けに入れておいたそれは立ち退きの勧告だろう。いったんトラックで逃げ出そうとしたが、燃料切れの上に鉄条網に阻まれる。すでに実験場に中から出られるないことを象徴している。ちなみに家を出るトラックの荷台に赤いラグは敷かれていないが、分かれ道では敷かれている。意味は不明。

父が出かけるとき、娘はなぜ途中までしか運転しないのだろうか。先の羊の件でもわかるように、父の職場は原爆実験の当局にある。そのために、関係者ではない娘はあそこから先には立ち入りできないのだ。この設定は、監督自らもインタビューでそう答えている。ちなみにあのトラックはZIS-5というソ連の軍用トラックで、おそらく当局から借用または払い下げられたものだろう。だいたいガソリンスタンドなど皆無の土地では、個人がトラックを日乗するなどできない。

青い目の若者は、モスクワなどの都会で経済的にも裕福に育ったと思われる。使っているカメラは、ZORKI-1(ゾルキー)というライカのコピーで、レンズ交換式のレンジファインダーカメラだ。コピー品とはいえ当時のソ連では最高の贅沢品だ。恐らく彼は記録の専門家で、当局の暗室が使えたのだと思う。手回し幻灯機もそこから持ち出したのだろう。

馬にもバイクにも乗る青年が乗っているバイクは、IMZウラルというソ連製のBMWのコピー。サイドカー専用の2輪駆動軍用バイクで今でも人気がある。彼が強引に開催しようとする婚礼。そこに集まる親戚のカットは実に印象的だ。ここが未開の地ではなく、多くの老若が住んでいることを表している気がする。

このように記憶に残っているシーンだけでも、調べるといろんなことが見えてくる。最後にもうひとつ。青い目の青年が幼馴染の青年に連れ出され、あげくのはてに、意識朦朧で姿をダブらせながら彷徨うあの海岸はどこなのだろう?この映画の舞台はカザフスタンのセミパラチンスク核実験場をイメージしている。面積は四国ほどあるのだが、ここに原子の湖と呼ばれる人造湖がある。人造湖と言うが原爆実験でできたクレーターに水が溜まったものだ。放射能汚染が現在でもひどい場所なので、当時は殺人的だっただろう。彼は疲れて倒れたのではなく、原子の湖の湖畔で被爆したのだ。きっと。ただし実際の原子の湖ができる時期は映画がイメージしている時代よりもう少し先だ。

映画の中で太陽はたびたび核の象徴として扱われる。少女が見つめる夕日(朝日)は全てが太陽ではなく、先に行われた核実験の光だったのかもしれないと考えてしまう。一番最後の朝日のシーンは、光が大きくなっていくがやがて小さくなる。ラストシーンの核爆発の遠景なのだろう。そしてその結果が羽毛の散乱する映画のファーストシーンへとつながる。

多くの映画がまったく無の状態から想像だけで描かれるわけではない。事実や他の作品などからトピックやモチーフを借りながら映画を構成するものだ。スピルバーグなどは借り物の天才だ。観るものは、それを手がかりに想像をふくらませる。そこに映画を読む楽しみがある。

セリフこそないが”草原の実験”もご多分にもれない。むしろひとつひとつのネタを吟味し、シンボリックに、また美しく表現している。そんな絵をじっくりと読んでいくと、思った以上に雄弁な映画に思えてくるから不思議だ。セリフがないことで絵に集中できる。それにまんまとハマった。この映画の魅力はそこにあるのかもしれない。






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