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「ブラックホールを見つけた男」アーサー・I・ミラー著 草思社文庫

スプラマニアン・チャンドラセカールは、インド生まれの理論天体物理学者で、1983年にノーベル物理学賞を受賞しています。

受賞の理由は、白色矮星の構造の研究に対してなされたものでした。しかし、チャンドラセカールは、その受賞理由に対しては、複雑な思いがあったそうです。

彼は、インドからイギリスにわたり、ケンブリッジで白色矮星を研究していた1930年代に、白色矮星になるためには上限の質量があり、それ以上の重量の星は、限りなく収縮していき、ついには、なにものも、光さえも脱出が不可能になってしまうということを、得意の数学を駆使して導きました。これは、今日でいうところのブラックホールの存在を予言したもので、画期的な発見だったのですが、彼の説は、当時の天文学界の頂点に立っていたエディントン卿から、徹底的に批判されました。エディントン卿の批判は、常軌を逸しているとも捉えられましたが、当時の天体物理学者たちは、エディントン卿からの反撃を恐れて、ほとんどなにも発言しませんでした。

エディントンがそこまで徹底的にチャンドラセカールを批判した理由は、チャンドラセカールの理論によって、自分が一生をかけた理論が根底から覆されてしまうからでしょう。エディントン卿は、この本の中では、悪役的に書かれていますが、この気持ち、わからないでもないです。必死だったのでしょう。

しかし、エディントン卿の執拗なまでのこき下ろしに疲れたチャンドラセカールは、アメリカにわたり、自分の研究テーマを変えます。

ブラックホールという言葉が生まれたのは、チャンドラセカールが発想を得てから30年以上たった1967年のことでした。そして、ブラックホールの理論が生まれる背景には、核兵器の開発もありました。チャンドラセカールもロスアラモスのプロジェクトに関わっていました。彼は第二次世界大戦後のインタビューで、「もし、最後に残った国が日本ではなくドイツであったら、はたして原爆を投下しただろうか?」、「二発目(長崎)は、必要なかっただろう」と言って沈黙したのだそうです。恨みがましいことは言わない人だったそうですが、このときの彼の脳裏には、ケンブリッジ時代に受けた人種差別的な扱いに対する、一言では言い表せない思いがあったのかもしれません。










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