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「ハードなアプローチは有害か?その3 吉福伸逸さんとの出会い」

「ハードなアプローチは有害か?その3 吉福伸逸さんとの出会い」

吉福伸逸さんは、私が最も影響を受けたセラピストです。

1970年代後半から1980年代、トランスパーソナル心理学は、世界中に強烈なインパクトを与えました。

人はあらゆる二元論を超越した境地にまで成長することができる、人はどこかで繋がっている、人が成長するための道はあるのだ・・・といった考え方は、当時20代だった私をワクワクさせました。世界が変わるかもしれない・・・と、当時思ったものです。

そのトランスパーソナル心理学を日本に紹介し、多数の本を翻訳し、自らも本を出し、トランスパーソナル心理学の世界大会を日本で開催した立役者の一人が吉服伸逸さんです。ちなみに世界大会の共同主催者が河合隼雄さん。

ところが、これからトランスパーソナル心理学が全ての心理学を統合していくのではないかといわれていた頃、突然吉福さんは日本を去り、ハワイに行って、心理学の世界とは離れていきました。

後に書こうと思いますが、当時のトランスパーソナル心理学の考え、あるいはトランスパーソナル心理学に関わる人たちの考えに、吉福さんは共感できなくなっていたのではないかと思います。

吉福さんに対しては、さまざまな批判があったのではないかと思います。「トランスパーソナル心理学を紹介しながら、何の説明もなく去っていくのは無責任だ」という批判はあったと思いますし、その後に起きたオウム真理教事件は、トランスパーソナル心理学の影響があるのではないか?ということが当時も考えられていたと思いますので、吉福さんについて語ることは、心理学の世界ではタブーになっていったのではないかと思います。

私は、残念ながら、1990年代後半から2000年初頭までの日本の心理学を取り巻く状況については、よく知らないのです。その頃、私は、アメリカで臨床心理学の勉強をしていました。アメリカでは、「なぜカルトによる猟奇的な事件が起きてしまうのか?」ということが話題になっていましたし、「トランスパーソナル心理学を曲解すると(都合の良いところだけ適用すると)、危険な状況になり得る」ということは、盛んに議論されていました。その観点から、私もオウム真理教事件などのカルトによる極端な事件について考察し、仮説を立てていました。

欧米からは、オウム真理教事件について、幾つもの論文が出されました。しかし、調べても調べても、1990年代の終わりまで、日本の心理学の世界からのオウム真理教事件に対する考察や同じような事件が起こらないための提言が何もなかったのです。オウム真理教事件が日本で起こったにも関わらず・・・。なぜだ!?と私は思いました。一方、ジャーナリズムの世界では江川昭子さんらによる地道なレポートや提言がありましたし、文学の世界からは村上春樹さんがとても重要な本を書いています。

日本の心理学会はどうして沈黙しているのか!?そして、トランスパーソナル心理学を日本に紹介した吉福さんはなぜ、何も語っていないのか?と思いました。

「なぜ人は暴走してしまうのか?」は、私のライフワークでもあるテーマなので、吉福さんにお話を聞くチャンスがないかな?と「まぁ、無理だろうな」と思いつつも妄想しておりました。

ところが日本に帰国してから3年目、2004年に、なんと私は、偶然にも吉福さんと一緒に仕事をすることになったのです。

1989年からハワイに移り住んでいた吉福さんが日本でのワークショップを再開したきっかけは、2001年9月11日にアメリカで発生した同時多発テロだったとのことです。ハイジャックされた航空機がニューヨークの貿易センタービルに突入して行くシーンを鮮明に覚えておられる方も多いことでしょう。その結果として、アフガニスタン紛争、イラク戦争が起こりました。吉福さんは、911以降、世界のありようが大きく変わり、そして日本もその変化に巻き込まれると考え、日本に再び関わって行く決意をされたとのことです。
私は、911は、日本におけるオウム真理教事件にも関連する心理メカニズムがあると思います。吉福さんは、それを語りに日本に帰ってきたのではないかと思うのです。

そして、吉福さんが日本で再会するプロジェクトに、私は末席ながら参加することになりました。

伊豆での吉福さんとの打ち合わせ場所に着いた時、私は極限の緊張状態でありました。何といっても雲の上の人にお会いするのですから・・・。

私は、フロイトみたいなヒゲをはやし、夏でも三揃いを着ているようなエライ人を想像していたのですが、打ち合わせ場所に入ってきたのは、ボーダーのTシャツとキャップをかぶってニコニコして「あなたが向後さん?吉福です~」と手を差し出し握手をしてくれる人でした。

私は、その瞬間、吉福さんを好きになりました。当時、60歳だった吉福さんは、まるで小学校1年生の目をして、楽しそうに僕に握手をしてきたのです。その後9年間吉福さんのお手伝いをすることになるのですが、吉福さんは超知的で無邪気で、そして深い哀しみを知っている人でした。

しかし、世間の目は違いました。「吉福さんのやり方は、もう古いんだよ。なんでそんな人と関わっているの?」、「今さら、ブレスワーク(呼吸法を利用したワーク)で、叫べばいいみたいなセラピーをやったって意味がないよ」などと、私に忠告してくれる人がたくさんおられましたが、それらの批判は、少なくとも私が知り合った2000年代以降の吉福さんの考え方やワークには当てはまらないものでした。私が知る限り、批判をしていた人は誰も、2000年代以降の吉福さんのワークショップに参加していませんでした。吉福さんが日本を去ったのが1989年、日本でのワークショップを再開したのが、私の知る限り2004年。15年ぐらいのブランクがあります。2000年代の吉福さんのワークショップは、1980年代のものとは違うものだったのではないかと思います。そして、私は、1980年代のワークを知りません。

私にとっては、吉福さんのワークで自分の防衛や抵抗に気付かされた部分がたくさんありましたが、そういう時に、吉福さんは、対等の立場で一緒に考えてくれたと感じています。

確かに、今の「常識」では「ハード」に見えるワークもあるかもしれませんが、私自身の経験から言えば、「ハードだったけれど、優しく温かい気持ちになるワーク」だったのです。その辺りのことを次回以降にお伝えしていきたいと思います。


*イラストは、吉福さんのイメージでChatGPTに描いてもらいました。

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