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「東洋の哲人たち 史上最強の哲学入門」 飲茶 著 河出文庫

東洋哲学の流れがとてもよくわかる本でした。西洋哲学は、論理を積み上げていって真理に迫ろうとするわけですが、東洋哲学は、「「ゴール(真理)を目指す」のではなく、「ゴールした」ところからスタートする(p.18)」とのことです。

東洋哲学は、まずは体験ありきで、その体験は言葉では表現不能なのです。その体験をなんとか伝えようとするのが、東洋哲学の試みなのでしょう。


ウパニシャッド最大の哲学者と呼ばれるヤージュニャヴァルキヤ(紀元前六五〇年頃~五五〇年頃)は、「梵我一如」、すなわち、「「世界を成り立たせている原理(梵=ブラフマン)」と 「個人を成り立たせている原理(我=アートマン)」が 実は「同一のもの(一如)」(p.36)」であることを示しますが、「「私(アートマン)については『に非ず、に非ず』としか言えない (p.72)」というのだから、困ってしまいます。


「私」とは、喜怒哀楽や五感を感じる意識現象なのでしょうが、釈迦(紀元前五六三年〜四八三年頃)は、「無我」、つまり「アートマン(私)は存在しない(p.103)」と言います。


さらに、一五〇年頃~二五〇年頃の仏教僧である龍樹(インドの仏教哲学者)は、「縁起という釈迦の哲学こそが仏教の要所であると考え、それを空の哲学として洗練させ(p.116)」般若経という経典をまとめあげました(この本には龍樹がまとめたと書いてあるのですが、ネットで調べると複数の人が般若経をまとめたとしています)。我々が存在すると認識するのは、自己と他者を区別するからであって、実体があるわけではないということでしょう。


独自に釈迦と同じような境地に達したのが老子(紀元前六世紀〜五世紀、詳細不明)なのでしょう。老子は、「道(タオ)」を説きます。「道(タオ)」とは;

・天地よりも先に存在した混沌としたものが、「道(タオ)」である。

・万物は、その「道(タオ)」から生まれた。

p.279

のだそうです。


万物森羅万象の背景にある、なんかよくわからないものが「道(タオ)」なのでしょう。だから、「あなた自身が何もしなくても、物事は勝手に起こるよ(p.287)」ということになります。その起こっていることを、ただ見ている境地が「無為自然」です。

こうなると、「道(タオ)」とは、なんなんだ?要は「神?」「宇宙意識?」なんて説明したくなってしまうのですが、「道(タオ)には本来境界などなく、言葉にも本来一定の意味などない。ところが言葉で道(タオ)を表そうとすると、そこに境界、秩序が生まれる(p.298)」と荘子さん(紀元前四世紀〜三世紀、詳細不明)はおっしゃるわけで、東洋哲学は、極めようとすると突き放されてしまいます。


突き放つと言えば禅ですね。臨済宗では、公案という「答えがないなぞなぞ」を出され、答えを出そうとすると「喝!」、曹洞宗では、能書きを垂れることは許されずというか聞いてもらえず、只管打坐(しかんたざ)で、ただひたすら坐禅に打ち込めって言われてしまいます。いずれの方法でも、思考が停止し、無為自然の状態になるのでしょう。


公案や坐禅だけではなく、念仏も、マントラも、あらゆる修行も、無為自然の状態になるための方法なのでしょう。ただ、「これをやっていれば、無為自然になれる」と思った途端、「喝!」なのでしょうし、「あっぱれ!」と言われて有頂天になったら「喝!」に逆戻りなんでしょうね。


そして無為自然になって、悟りをひらいても、そこがゴールじゃないようです。十牛図という悟りに至る道を描いた一連の絵があるのですが、八番目の絵はただ円が描かれているだけで、なんか悟りの境地を表したもののように見えるのですが、廓庵(かくあん;九六〇年〜一一二七年)という中国の禅師が「そこに九番目と一〇番目の絵を付け加えた(p.413)」んですね。九番目は、花が咲き誇っている絵で、一〇番目は、なんか太ったおじさんが、酒の入った瓢箪を小脇に抱えて、楽しそうに街でふらふらしている絵です。ホントに悟った人は、普通の人と見分けがつかないのです。


ですから、「私は悟った」とか「全ての真理を知った」とか「最終解脱に到達した」なんていうのは、「喝!」なんでしょうね。


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