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「ぼくらの戦争なんだぜ」 高橋源一郎 著 朝日新書

僕は、幼少期、神奈川県川崎市に住んでいました。川崎駅に行くと、駅前に両足を失った傷痍軍人がいて、その横に軍服を着た人がオルガンで悲しい感じの軍歌を奏でていました。昭和30年代(1960年代前半)まで当たり前のようにあった風景です。

両親に連れられていた僕は、小銭を恐る恐る彼の目の前のお皿に置いたものです。しかし、僕には自分の行為が、なんとなく恥ずかしかったのです。当時その居心地の悪さの理由はわからなかったのですが、今から振り返ると、小銭を置いていくという行為は、「僕らとあなたたちとは、違うんですよ」という宣言でもあったのではないかと考えます。僕は、その行為で戦争を自分たちから切り離し、「いいことをする」他人となったのです。その瞬間、戦争は現実ではなく物語の世界になりました。

物語は、こんな感じです。
「「わたしは悪くない。悪いのは『時代』だ。大きな川の流れみたいなものに巻きこまれただけなんだ。誰もがみんな、巻きこまれた。悪いのは、わたしじゃなくて、『大きな川』の方だよ」(p.120)」
「ぼくたちは受け継いでいる。「戦争の物語」を。  たとえば、「大東亜戦争」という名前の戦争の物語は、日本人がアジアを解放したと告げている。  また、別の物語では、国民は軍部と天皇制の抑圧の下で、戦争を強いられ、戦争が終結した後、民主主義という素晴らしい贈り物を受けとることができたのだとされている。(p.301)」
どれも、当時よく聞いた話です。小学生だった僕でも、これらの「物語」は、なんかおかしいと感じました。

小学生の頃、先生たちは、「先の戦争は愚かだった。悪いのは、軍部や政治家だ。一般の人々は、戦争なんかしたくなかったのだ」と言いました。実に嘘っぽかったです。なぜなら、彼らは戦時中のことを話す時、とても生き生きしていたのです。先生たちの中心は、40歳前後の人たち、つまり終戦時には20歳以下の人たちで、実際に戦争に参加していないのです。

子どもの頃から、「実は、みんな戦争に賛成していたのではないか?」という疑問を僕は持っていました。

この本は、その疑問に初めて真正面から答えてくれるものでした。高橋さんは書きます。
「「戦争」には、きっと「楽しい」部分もあって、でも、そういうことは、口に出してはいけないことになっている。でも、そういう、「口に出してはいけない」ことを、口に出していないと、ついには、なにがほんとうのことなのかわからなくなってしまうからだ。(p.91)」
「「空気」に流されたのか。でも、流された、という点では「川」だろうが「空気」だろうが、同じことだ。ほんとうは、「流された」のではなく、自ら進んで、流れていったんじゃないだろうか。自分では、自ら選んだ道を進んでいるつもりで、だけれど。(p.121)」
「「彼らの戦争」は悲しい。しかし、同時に、どこかぼくたちを魅了するところがあるような気がする。そして、そのことこそが、もっとも恐ろしいものなのかもしれないのである。(p.227)」
戦争は人を興奮状態にするのでしょう。例えば台風が上陸すると子どもは、騒ぐじゃないですか?停電なんかしたらタイヘンです。それと似ているのではないかと僕は思います。

物語の中の戦争は、ワクワクするものなのではないのでしょうか?このワクワクが危険です。ワクワクに正義の理屈づけがされたら、もう止まることは難しくなります。

その時に反戦を訴えても、もう遅い。「アジアの解放なんて信じられない」「アメリカに勝てるわけがない」「特攻は非人道的だ」などと、戦時中に言えるでしょうか?僕には、思っていても言える自信はありません。
では、どうすればいいか?

一つの方向が太宰治のやり方です。太宰の「十二月八日」という小説は、太平洋戦争に突入した1941年の12月8日という特別の日に、普通の主婦がどんな1日を送ったのかを稚拙な文章で残すという内容です。彼女は、100年後の人が読んだら歴史の参考になるかもしれないと思い、「嘘だけは書かない」という決意をします。

この嘘のない文章という設定の小説の中で、太宰は反戦の意思を、ユーモアや皮肉の仮面の下で示していきいます。

太宰治は1941年の12月20日までにこの小説を書き上げ、1942年には世に出しています。検閲にも引っかかりませんでした。チェックする側に文章を理解する能力がなかったのでしょう。

もし、この時期に、明確な反戦の意思を示したら、検閲に引っかかり、結局は文章が世に出ないということになったでしょう。太宰の反戦の意思は、読む人が読めばわかりますし、この小説は、100年後の2041年12月にも、当時の嘘のない記録として読まれるでしょう。

もう一つのやり方は、ロシアの作家ドミートリー・ブィコフ氏が、2022年2月25日に「ウクライナ文学を読もう」とラジオで訴えたようなやり方でしょう。でも、その後、ブィコフがどうなったのか、わかりません。


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