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「科学の方法」 中谷宇吉郎 著 岩波新書

名著です、著者は1962年に亡くなっていますので、相当古い本です。

でも、書いてることは今でも色褪せません。

著者がこの本の中で繰り返し書いているのが、「科学が扱えるのは、自然の中のごく一部である」ということです。

「まず第一に、一番重大な点をあげれば、科学は再現の可能な問題、英語でリプロデューシブルといわれている問題が、その対象となっている。もう一度くり返して、やってみることができるという、そういう問題についてのみ、科学は成り立つものなのである。(45)」

「自然現象は非常に複雑なものであって、人間の力でその全体をつかむことはできない。ただその複雑なものの中から、科学の思考形式にかなった面を抜き出したものが、法則である。(957)」

つまり科学が取り扱えるのは、同じことをすれば同じことが繰り返されることのみなのです。たとえば一つの個体の運動について取り扱えますし、ここにばらつきがあっても、統計的に整理したら再現性があると言ったものにのみ科学を使えるのです。

人生の中で、考えられないような奇跡が起きて、その後の人生がガラッと変わった・・・なんてことは、科学の対象ではないわけです。

そうした出来事は、たとえば文学のテーマになり得るでしょうが、これを「相対性理論」だとか「量子論」などの物理学理論で説明しても意味がないのです。そもそも科学が扱えるテーマではないのですから。

しかし、科学の対象でないものを科学の言葉で説明しようとするカテゴリーエラーは、現代でもしばしば起こります。

「『スピリチュアリティは愛である』ということを量子力学が証明しました」ということを主張した大学の先生がおりましたが、僕には全くピンときませんでした。・・・と、同時に大学の先生でこういうことを主張する方がおられることに、非常に驚きました。

愛やスピリチュアリティの存在を科学的に説明しようとしても、「愛」「スピリチュアリティ」の定義が難しいですし、再現性の証明も難しいでしょうから、今の科学の枠組みでは取り扱えないものだと、僕は考えます。

科学で説明できることには限界があるということは常に意識していなければならないことでしょう。

この本の中には、幾つもハッとさせられる言葉がありました。

「スミス氏が死ぬというのは、その細胞の全部が死んだ時のことである、といわれるかもしれない。ところがスミス氏のからだをつくっていた細胞の全部は死なないのである。スミス氏に子供がある場合には、スミス氏の細胞の一つはその子供の中に生きているわけである。(1131)」

これは、考えさせられます。死とはなんなのか?むむむ・・・。

また、こんな文章もありました。

「いくら高度の数学を使っても、人間が全然知らなかったことは、数学からは出てこない。しかし人間が作ったとはいっても、これは個人が作ったものではない。いわば人類の頭脳が作ったものである。それで基本的な自然現象の知識を、数学に翻訳すると、あとは数学という人類の頭脳を使って、この知識を整理したり、発展させたりすることができる。従って個人の頭脳ではとうてい到達し得られないところまで、人間の思考を導いていってくれる。そこにほんとうの意味での数学の大切さがある。(1425)」

これは、生成AIにも言えることなのではないかなと思いました。

昔の本だけど、新鮮でした。

*文中数字は、kindleの位置(Location)番号です。


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