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「正しさとは何か」 髙橋明典 著 夏目書房新社

最近、「不適切にもほどがある」というテレビドラマが話題になりました。1980年代の熱血教師が2024年の現在にタイムスリップする話で、楽しんで観ています。この教師の言動は、現在の基準に照らし合わせると、パワハラ、セクハラになってしまい、まさに不適切です。1980年代は、それを「正しい」とは言わないまでも、「まあ、よくあることだし、いいんじゃない?」というノリでしたが、今はポリコレをきちんと守ることが正しいようです。


「正しさ」は、変化するのです。最近1920年代のオシャレな服を着た若い女性の写真と、戦時中の贅沢は敵だの時代のやはり若い女性の写真を見ました。あまりの違いに驚きます。1920年代には、若い人たちの間ではオシャレをすることが正しかったのではないかと想像します。今見てもかっこいいし、素敵だなと思うファッションです。でも、それからたった20年しか経っていないのに、モンペ姿が正しくなるわけです。


振り返ってみると、正しさの基準は流動的です。1980年代のサラリーマンにとっては、例えば社内では出過ぎずに協調することが最も正しかったわけですが、今は個人個人が成果を出す、自分の部署が他の部署より成果を出すことが最も正しいわけです。

正しさは、人によっても異なります。例えば、ネトウヨさんにはネトウヨさんの、ネトリベさんにはネトリベさんの正しさが、それぞれに存在します。


「「正しさ」とは、常に「誰かにとっての正しさ」でしかない(p.11)」のです。


そして、「誰かにとっての正しさ」は、完全に独立したものではありません。「場の力」にも影響されます。

「場の力」は個人の言動によって発生するものですが、いったんそれが発生すると、今度は逆にそこにいる個人がその「場の力」に支配されてしまったりすることがあります(p.133)。


場の力は、空気と言ってもいいでしょう。そして、日本人は、空気に影響されやすいのかもしれません。尊王攘夷が文明開花に、鬼畜米英が対米追従に、あっという間に変わってしまいましたから。


正しさが変化するものなら、変化に合わせていけばいいじゃんと考える人もいます。彼らは、「時代が変わったのだから仕方がない」「状況が変わったのだから仕方がない」と言うかもしれませんが、いやいや、それではまずいのではないか?と思います。日本には、誤った「正しさ」で、戦争に突入して大きな犠牲を出してしまったという歴史があるのですから。例えば、「バスに乗り遅れるな」や、大本営発表などですね。

なぜそれが正しいのか、しっかりと考える必要があると思います。


「正しさ」とは何かと考え始めると、かなり難しい概念だということがわかります。この本はまさに、このことについて哲学的に考察しているわけで、ハーバマスとかデリダとかベイトソンとかウィトゲンシュタインとかポパーとか・・・偉人たちが正しさと奮闘してきた軌跡を示してくれています。理解するのに(理解したつもりになるのに)かなり頭をひねりました。


正しさの基準は、「時代が変わったから」「状況が変わったから」という理由でコロコロ変えるべきものではないと思います。


正しさは、万能な判断基準ではありません。そして、いたるところに、異なる正しさが同時に存在しているのです。すべての人が同意する「完全な信念体系など存在しない(p.197)」のです。



完全な正しさは存在しないのですから、僕らにできることは、「正しくあろうと努力し続けること(p.197)」だけです。

そのためには、自分と異なる正しさを持つ人たちと、対話と合意を繰り返す必要があるのでしょう。


著者は、「正しさという道具は、戦うための道具でも、勝つための道具でもなく、私たちを幸福に導くための道具(p.197)」と言います。とても大事な考え方だと思いました。


正しさが戦うための道具になると、世界は歪んでいくのでしょう。そして、その先にある最悪の事態が、例えば戦争なのでしょう。


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