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「アイヒマンと日本人」 山崎雅弘 著 祥伝社新書」 

第二次世界大戦中、ドイツのユダヤ人移送局長官だったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴した犬養道子の隣で同じく傍聴していたアメリカ人記者は、アイヒマンを見て「普通の男じゃないの!?」と呟いたのだそうです。


その普通さが恐ろしい。アイヒマンは、「ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の「効率的稼働」を、いわば流通管理(ロジスティクス)の面から支え続けたキーマンだった(p.97)」わけです。彼は、上官のヒムラーやハイドリッヒの命令に従順に従い最大の効果をあげた「できる管理職」だったのでしょう。


アイヒマンは、裁判で「自分は命令に従っただけだ」と主張し続けました。しかし、彼は輸送されたユダヤ人たちにどのような運命が待っているのかを知っていました。ユダヤ人たちに待っている運命とは、「強制労働」、「ガス室などでの集団殺害」、「人体実験」でした。


犬養道子は、「ごく普通の、平たくいえば「そんじょそこらの」家庭背景を持った、一人の男が、ふとしたきっかけで――よしんばそれが、テコをも動かすような圧力を持ったきっかけであったとしても――あれほどの途方もない罪悪を平然として、義務として、自己満足の道として、やってのけるようになったということは、私を含むすべての「普通の」人の中に、きっかけさえ与えられれば、彼と大差ない存在となり得る、どす黒い悪魔的な可能性がひそんでいるということか……。(p.163)」と記しています。


村松剛は、アイヒマンの行動原理は、「出世欲」から来ていると言います。


犬養さんや村松さんが言うように、「従順で真面目な普通の男が出世欲により、非人道的な行為までしてしまう」と言うことはありうる話だと思います。


しかしそれでも理解できない行動があります。


ユダヤ人虐殺が「政策」として承認されたヴァンゼー会議の後に、ハイドリヒとミュラー、アイヒマンの三人が部屋に残り、コニャックで「祝杯」をあげた(p.79)事実に、僕は不気味さと恐ろしさと嫌悪感を感じます。


また、不可解なのが、1944年、ドイツの敗戦が濃厚になってきたときアイヒマンの行動です。6月6日にノルマンディー上陸作戦が成功し、もうドイツに勝ち目がなくなっているにもかかわらず、10月にはハンガリーのブダベストに赴きアウシュヴィッツへのユダヤ人輸送の指揮をとり、アウシュヴィッツでのガス殺が停止した11月2日以降にも、ユダヤ人を極寒の中、収容所に向かわせることを命じ、数万人のユダヤ人が命を落とすということがありました。そして、自分自身の身の危険を感じブダベストを脱出する11月24日の直前に、ブダベスト市内のゲットーに残る6万人のユダヤ人の射殺を命じているのです。幸い、スウェーデンの外交官ヴァレンベリらによる阻止行動によりアイヒマンのハンガリーにおける最後の命令は実行されませんでしたが・・・。


なぜ、そこまで命令に忠実にならなければならなかったのでしょうか?あるいは、アイヒマンは、証拠隠滅のために、自分を知るユダヤ人を全て抹殺しようとしたのでしょうか?


残念なことに、命令に忠実な真面目な人が非倫理的な、あるいは犯罪的な行為に走ってしまうということは、日本の中でよくあることなのではないかと思います。国家公務員による公文書の黒塗り、政治家とカルト集団との関係、車の修理会社の不正、大手芸能事務所における性被害など、たくさんの小アイヒマンがいたはずです。


「あなたは、心の中に「越えてはならない倫理上の一線」を持ち、それを踏み越えることを上位者に命じられた時、はっきり「できません」と、僕は言えるのでしょうか?

そして、多くの人が、「自分の子どもの将来を思って、現実社会とうまく折り合うための「処世術」を教えているつもりで、じつは「小賢しくて無責任な小アイヒマン」を育ててはいないだろうか(p.190)」と言う著者と同じ危惧を持っています。


大人から子供まで、条件が揃えばアイヒマンになりかねない、真面目ないい子ちゃんがたくさん生産されているように思います。


何かを命じられたら、「それって、倫理的に大丈夫なの?」と自問し、場合によっては、その命令に反対することの大切さを、次の世代の人たちに伝えていくことが大事なのではないかと思います。


また、戦後ドイツ軍に制定されている「時と場合によっては上位者の命令に従わなくても罪には問われず、逆に従うことで有罪になる場合もありうる(p.182)」という「抗命権」を日本でも官僚機構や企業の中に導入したらいいかもしれないなんて思います。


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