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「グレート・ギャツビー」 F・スコット・フィッツジェラルド 著 村上春樹 訳 中央公論社

だいぶ前、多分20代の頃に読んだ時、僕は、なぜこれが傑作なのかわかりませんでした。なんか引っかかる作品ではありましたが・・・。


要は、一人の男が、一人の女性に恋をしたけれど、戦争で離れ離れになっている間に女性は結婚してしまう。諦めきれない男は、彼女が夫と子供と共に暮らす邸宅が内海を隔てて正面に見える場所に居を構え、いつか彼女に会えないかと、週末ごとに派手なパーティーを開きます。彼女が、パーティに参加してくれるのではないかと願ってのことです。結局、二人は出会うことになるのですが・・・。


これでは、演技性自己愛男の、ストーカー物語じゃないか!って思ったんですね。


しかし、最近、ディカプリオの「グレート・ギャツビー」を見て、ん?なんかやっぱり引っかかるぞ、そういえば、村上春樹さんが訳していたなと思って村上春樹訳バージョンで読み返してみました。


面白かったです。


人生には、奇跡的に夢のような一瞬がおとずれることがあります。でも、それは長続きしない。ほんのひとときの幻です。しかし、もし、デイジーが、「あなた(トム)を愛したことは一度も無かった」と言うことができたら、夢は、永遠になったかもしれません。


普通の常識であれば、ギャツビーだけを愛し、夫となったトムを一度も愛したことがなかったなどということはないでしょう。でも、ギャツビーへの愛が真の愛で、それに比べれば、トムへの愛は妥協だったということもあるでしょう。

しかし、デイジーは、ギャツビーが作った夢の世界から去っていきます。


フィッツジェラルドの妻ゼルダは、あらゆるパーティーの主役で何人もの男性と恋をするという奔放な暮らしをしていました。ゼルダはデイジーだったのでしょうか?フィッツジェラルドは、ギャツビーだったのでしょうか?それともトムだったのでしょうか?

実際の生活では、フィッツジェラルドは、ゼルダが空軍将校と浮気したことを嗜めています。そして、フィッツジェラルドもトムもアルコールに溺れます。


じゃあ、ギャツビーは、フィッツジェラルドにとって何者だったのでしょう?ギャツビーは、自己愛的な妄想の世界に生きているようでありながら、アルコールを嗜みません。彼は、夢の世界を夢としてではなく、覚醒した現実として体験しているのでしょうか?


ゼルダとフィッツジェラルドの、デイジーとギャツビーの夢のような生活は、終わりを迎えます。パラダイスは、刹那的なのかもしれませんが、その記憶は永遠に残るのかもしれません。


ところで、表紙は、和田誠さん。すぐわかりました。


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