僕がインターホンを押せなくなるまで。
ピンポーン。インターホンを押す、ドアを開ける、「ごめんくださーい」と言いながら玄関に入る。これが絶対死守の基本動作だ。令和の今でこそほとんどのお宅は鍵がかかっており、オートロックやカメラが備えられて自らドアを開けて入ることは限りなく不可能になったが、18年前の北海道では9割くらいは鍵がかかっていなかった。まずは自ら玄関に入ること、文字通りそれが売れるための第一歩だった。
名ばかり出版社!?
札幌の大学を卒業して入社したのは、全国に支社を持ち書籍や学習教材の販売で勢いのあった出版社で、当時は島田紳助さんを起用したCMも流していた。もともとは新聞社志望だったものの、どこもダメでやむなく出版社に進路をとった。といっても誰もが知っている有名な出版社は狭き門であり、結果内定をもらった2社の内、第1ステップとして「出版業界」に入ることから始めようと、割と消極的な理由ではあった。
最初の配属先は中学生向け教育教材を販売している営業部の釧路支社。そう、一年中霧に包まれているというあの釧路である。小さな支社だがそれでもで40人ほどの営業マンがいて「会社感」はあった。同期入社は僕を含めて8名。僕は出版事業の志望だったが、最初は営業で経験を積んでからとのこと。給与もその後の配属、待遇も全て営業成績で決まるという割り切った仕組みで、成績如何によっては月収は最低で14万円と聞かされた。一方で上限はなく、獲得売上高が増えるほど給与と役職が上がり、年次だとか年齢だとか経験は一切関係ない、生きるか死ぬかのバトルロワイヤル状態。スーパー歩合制だ。
工夫なんていらない。徹底的に「それ」をやるだけ。
僕のミッションは「中学生が住んでいるお宅にアポ無しで突撃して2900円の学力テストを販売してくること」である。そのテストを受けて郵送した方には、別な担当(もっと優れた営業マン)が訪問して弱点を説明してお子さんにぴったりの勉強方法を提案します、という触れ込みだ。そう、その方法こそが儲けのからくりであり、自社の学習教材(60~80万円)を買ってもらうのが最終目的である。
最初の3か月は研修として給与は定額。社内で営業トークを覚えたり、ロールプレイで練習したり、先輩に同行したり、後半は少し実地訓練もあった。4か月目には一人前として世に放たれる。武器は①中学生が住んでいるらしい住所リスト、②スバルの軽自動車「プレオ」、③大量の申込書の3つだけ。基本トークは事細かにマニュアル化されており、いわゆる個人の判断や才能は影響しない手法で、ただひたむきに決められた動作で、決められたことを話すのが売れる道のりだと教わってきた。自分自身で用意するものは、あえて言うなら度胸だけ。
「君の担当は〇〇中学校ね」と学区単位で決められる。最初は中標津という小さな町の担当になり、縁もゆかりもない場所で、現地に向かう運転中もとにかく不安しかない。初対面の人に2,900円の物を買ってもらうことの難しさは説明をしなくてもある程度わかっていただけると思う。
最初は全く売れなかった。1週間がんばって1本(1契約をこう呼んでいた)がせいぜい。同期もみんな同じくらいだった。それでもみんなで頑張ろうと仕事が終わってからも深夜まで残って営業マンとお母さん・お父さん役に分かれてロールプレイをする。でも売れない日々。
「工夫なんかいらないんだ。教わったことをそのまま現地でやればいい」。売れ始めたのは、支社長にそう言われたのがきっかけになった。それまでは良かれと思って相手に合わせて口調や言葉を変えていたが、そうではない。インターホン押す、ドアを開ける、入る。そして決められたトーク。それだけ。断られた3回まで「そうですよね。ただ~(メリットを語る)」という対応をするのも決められており、4回目のシャットアウトまでは無心で教わったことをしゃべる。
入社5ヵ月目で月収80万円に。
霧深い釧路も夏らしくなってきた7月下旬、一気に売れ始めた。毎日15軒くらい回るが、日に2本は当たり前、多い日には5本も売れた。8月には完全に「ゾーン」に入ったようで、担当していた学区内に良い噂が周りはじめ、玄関先で名乗った瞬間に「待ってたよ。申し込みます!」みたいなことがあったり、会社所有の名簿にないお宅をたくさん教えてもらえたり、まさにクチコミで市場が動いたことを感じた時間だった。中学生たちが色んなことを教えてくれるようになり、商品の説明をしながら「数学の先生って芸能人の〇〇に似てるんでしょ?」とか、「C組なの?じゃあ〇〇君と同じクラスだよね?実は〇〇君もこのテスト申し込んでくれたんだよ」と、会話ができるようになったのもこの頃。よその子の申し込み状況とか、今では絶対にNGな話ではあるが当時は受け入れてもらえた。
8月、9月と2ヵ月連続で支社内の販売本数のトップになり、全国200人いた新卒の中で2位の成績だった。2位というのが我ながら詰めが甘いのだが、報酬はどんどん増えて8月は月収80万円を超える。学力テストだけの売上は月50本で14万円ほどだが、受験してくれた方に別の営業マンが学習教材の提案をしにいき、おおよそ4軒に1軒くらいは60万円ほどの契約をいただける。つまり僕のアプローチきっかけで13軒780万円程度の売上となる。
一方では役職もいただいて、部下を持つようになる。毎月の成績次第でどんどんとチーム編成が変わる。昨日まで上司だった人が今日からは自分の部下になることも当然あった。
この頃の仕事は今のマーケティングの仕事をする上で、とても重要な考え方のベースになっている。1対1で物を売れないのにBtoBもBtoCも無いと思ってるし、営業とマーケティングの両輪が機能して初めてちゃんと物を買ってもらえる。それは自分でインターホンを押し、認知から購買まで全てをその場で直接体験し、買い手の心の変化を刻々と感じることができる仕事だったこそだ。
これが自分のやりたかったことか
でも当時の仕事を肯定できるようになったのはごく最近の事だ。成績は良くても、報酬が高くても、いつも心の中には「自分がやりたかった仕事はこれじゃない」という意識がはっきりあった。支社長にも自分の進みたい道、つまり出版をやりたいことを宣言していたし、その会社には指定の営業成績をクリアできたら優先的に希望の部署に付ける、というすばらしい制度もあった。しかしそんなにうまくはいかないのも人生。何度も直談判をしたが、営業から出版への部署異動はそう容易ではなく、なにより支社長としてはある程度の数字が期待できる人間を外に出したくはなかっただろう。
良い成績を出せば希望の部署に異動できる、それだけがモチベーションだった。それが叶わぬと感じた瞬間から意欲は低下して、他のことへ気持ちが向いてくる。別な仕事を探そう。
団らん中の家庭に訪問する怖さ
そう思ってからは成績も下がり、目立つ数字は出せなくなった。「もっと売ろう」という気持ちがなくなるのは当然なのだが、インターホンを押すことが怖くなってきたのだ。どんな人が住んでいるんだろう、怖い人だったらどうしよう、このお宅でも断られるのではないか、家族団らんの時間に邪魔をして申し訳ない・・・。今まで感じたことがなかったような恐怖心。訪問先の家の前まで行ってもインターホンが押せない。葛藤しながら立ちすくし、ドア越しに楽しそうな笑い声が聞こえたりすると、この家庭に自分がひどく余計なことを持ち込もうとしている気がして、インターホンを押さずして私は「断られた」。
結果、僕は訪問販売の仕事を1年で辞めた。成績は悪くなかったし、報酬も高かった。平均すると月収60万円くらい。それでも辞めた。インターホンを押すのが怖くなってからは、訪問件数など報告する数字にも嘘を混ぜるようになった。行かずに断られた軒数を。
辞めてからしばらくは住宅街やアパートが怖かった。特に夕食時の良いにおいが漂う時間帯はまるでトラウマのように怖かった。
社会人1年生での体験はその後を左右する大切な時間になった。それは間違いない。やりたい業種でも職種でもなかったし、その仕事が自分にとってどんなプラスになるかも見えていなかった。それでも一生懸命向き合って、決められた型を徹底して行えば成果が得られたし、18年たった今も揺るがない「売れる」自信を得た。後で気づいたことだけど、人や会社にモノやサービスを売って利益を獲得するのが、世の中にある仕事のほとんど。やりたいと思っていた新聞だって雑誌だって、あるいは書籍だってそう。とりわけ私が体験したセールスは、会社が用意しているテストというプロダクトを、初めて会う人に、相手の家で、自分ひとりでアポなしで訪問して、その場でハンコをもらうという究極的なもの。この先もっと大変な環境でものを売るケースってそんなに多く無いのでは?と思えるようになった。
社会人1年目の私へ。
あれからもう18年。これからたくさんのインターホンを押すであろう僕に声をかけられるなら。
考えていた仕事に就けなくても悔やむことなんて全くない。夢や理想よりも大切なものはやっぱり「今」で、今自分が置かれている場所でどう生きるかがとっても大切です。超がつくほどの就職氷河期といわれたその時代に文句を言っても仕方ない。どんな事でも一生懸命やれば、絶対に得られるものがあること。1ミリの無駄も無いのです。
新入社員1年生から今日まで、色んな仕事をしたし、色んな選択肢がありました。振り返ってみても後悔は一つもありません。特に最初の1年目、毎日の経験は私の宝物です。宝物になる毎日があなたを待っています。
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