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謎の本指名

見たことの無い名前で、本指名の予約が入っている。慌てた。急いで端末を起動させる。


自分の記憶力に自信はない。むしろ記憶力の無さに自信があると言っても過言ではない。誰だ、この人は。

本指名​──裏を返すとも言うが、つまり二度目ということだ。だのに、どれだけ顧客メモを漁ってもその名前がヒットしない。この時はスマホのメモ帳にひたすらメモを書き殴っていたが(今は友人が教えてくれた顧客管理アプリを使っている。メモ帳だと検索に時間がかかっていた)、単語検索を掛けてもヒットしない。

やがて予約のスタート時刻になる。ままよ、と階段を降りた。思い出せなかった時には素直に謝ろうと腹を括りながら。


挨拶をする。手を繋ぎ階段を上る。記憶を手繰る。当然こちらはスマホなんかより性能が著しく悪い、勿論ヒットしない。心の中で頭を抱える。抱えたまま、部屋に案内する。


「……あの、すごく申し訳ないのですが、」

自己紹介後、ベッドに座す相手を見上げる。顔すら一ミリも記憶に掠らないとなると、もしかして本当に会ったことがないのかも、という希望的観測を抱いて。

この時、吉原に来てまだ間もない頃だった。これで忘れていたのだとしたら、そろそろ脳味噌をスキャンして診て貰った方がいいかもしれない。

「…ああ、実はですね」

口調の柔らかい相手が微かに眦を下げる。続いた彼の言葉を纏めるとこうだ。

移籍前の川崎セシル時代。彼はそこの常連だったそうだ。常連ともなればボーイさんとも軽く会話をするようになる。今日の子はこうだった、ここを改善して欲しい、また来るね等など。

ある日入った嬢が、好みから少しズレていた。それを伝えると、セシルのボーイさんが真摯に話を聞いてくれた。こんな子が好みなんだけれど、居るかな。それに対しボーイさんが返したのは、かつての私の源氏名だった。

けれどそれから間もなく私は吉原に移籍してしまった。もう川崎での予約は出来ない。だのに、彼はわざわざ、この吉原まで足を運んでくれたのだ。


「あのボーイさんの言うことなら信じられると思ったんですよね」


心の中で、川崎に向かって深く頭を下げた。私を"知っている" 故の、"本指名"だったのだ。


翌日、久々にセシルへLINEを送った。返ってきたのは"こちらこそ"という温かいお礼の言葉と、応援のメッセージだった。

この業界に踏み出す時、川崎セシルを選んだ私の勘は間違って居なかった。あのボーイさんが今もセシルで働いているのかは分からないけれど、元気で居て欲しいなとふとした時に思い出しては思うのだ。

出勤前に飲むコーヒー。ごちそうさまです。