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カーテンを開いて


───……ああ、だめだ。泣いてしまう。


ベッドの上で横隣。薄ら滲み始めた視界を認識しながら、それでも言葉はゆっくりと溢れ出して止まらなかった。自分のよりひとまわり大きなスマートフォンを手に、そこに綴られた言葉がそっと私に触れてくる。それは決して抉るようなものではなく、私のこころの柔くて温くまだ定まっていない、琴線と呼ぶにはあまりに迷いの多い部分を、遠すぎず近すぎないところから覗き込んできてくれるような感覚だった。



“ 幸せが、わからない。”


決してそれはネガティヴな意味ではなく。ただ単に、そう信じて言い聞かされて生きてきたのは何も私だけではなく。多くの人が信じて走り続けて、そして大人になってどこかのタイミングで気付くこと。なんのために、はしってたんだっけ。走ることの喜びでなく勝つことを喜びと認識してしまうような。動機でなく行為そのものを称賛されてしまう、それに疑いを抱けど足を止めることは無性に怖く。そうやって「現在」が霞んでしまう。未来の為に現在を捨て続けるような生き方を、多かれ少なかれ誰もがしていると思う、少なくともこの国では。




『いつ津波で流されるかわからないからねぇ!』


いつしか読んだ震災後の記事で、長い間大事にとって置いたお酒を出してきて皆で飲みながら、復興の中でそう語った福島の人の言葉とリアリティを今も強く覚えている。いつ死ぬかわからないから、今を大事に生きなさい。そんな言葉は時々聞くけれど、ここまでリアルに、津波のように自分へと迫ってきたのは、あの光景を画面越しと言えど覚えているからなのか、震災後にあの地に立ったことがあるからなのか。少なくとも、私の心に深々と刺さっている。抜けないままでいるのは、私がそれをまだ出来ていないからに他ならない。 


幸せについて書いてくれと頼まれたというその文章を、ささらさんにチェックして欲しくてと渡されたその画面に綴られた言葉の数々を、何度も繰り返し読んだのにそれらはふわりふわりと触れてくるばかりで、むしろ私の方から溢れるばかりで、突き刺さりはしなかった。深くに留めておきたかったからそれを惜しく思う一方で、そこに流れている優しさが、無性に嬉しくもあったのだと思う。こういう優しさに、私は滅法弱い。


梔子の香りが、少し遠くから吹き込んでくる。

出勤前に飲むコーヒー。ごちそうさまです。