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私と鉄道の話②

鉄道ファンとは、全国どこにでもいるものだ。

かくいう私も、現在の仕事を始めるまではその一人だった。
私はなぜ鉄道ファンになり、どのような経過をたどってきたのか。
きちんと整理してみようと思う。

前回は幼少期から思春期にかけての私の鉄道遍歴を振り返り、いったん鉄道趣味から足を洗ったところまでを書いてみた。
今回はなぜ再び鉄道趣味に帰ってきたのか、そして社会人になってからを振り返ってみよう。


1.大学時代-「当たり前」の大事さに気づいた渋谷の大変化

東急5000系青ガエルラッピング車

大学に入ってすぐの頃は、鉄道とあまり縁のない生活を過ごしていた。
周囲で流行っているものに合わせつつ、自分が楽しいと思える音楽や勉強にのめり込んだ。
201系や209系といった、身近で利用した車両が引退したのはこの頃だったが、私はまったく追いかけなかった。
それでも、転機は比較的すぐに訪れる。

それについて話すには、まず当時の通学ルートを説明しなければならない。
私が鉄道趣味に戻ったきっかけは、このルートにあったからだ。
当時の通学ルートは最寄り駅から横浜線で菊名駅に向かい、東急東横線で渋谷まで行った後、山手線代々木へ。その後中央・総武線の各駅停車に乗って、水道橋駅まで向かうというものだった。
家から大学まで1時間半ほどだったこのルートを選んだのは定期運賃の安さ、そして渋谷や原宿など若者が好む街に、定期券で行けることだったと記憶している。

大学3年の年度末。
私は就職活動に明け暮れていた。
2013年3月、東急東横線の渋谷駅に大きな変化が訪れたことをご存知の方も多いだろう。
東京メトロ副都心線との相互直通運転が開始されることに伴い、渋谷駅は地下に移転した。
私はまさにその時、就職活動をしていたのだ。

地上駅舎の最終日も、私はいつも通り渋谷駅から東横線に乗って帰った。
いつもよりも人が多いし、警備員の人も増員されていて物々しさを感じる。
リクルートスーツに身を包んだ私も、「そういえば明日から日常が変わるのか…」と思わざるを得なかった。

そして、翌日。
菊名駅から乗ったのは、ステンレスボディに青い帯を巻いた西武6000系だった。

私はこの時、当たり前の日常は刻一刻と変化していくことを痛感した。
日々乗っている鉄道も、今日咲いている花も、飛んでいったあの鳥も、永遠の存在ではない。
それならもっと今を楽しみ、大事にするべきではないか?
東横線の出来事をきっかけに、私はこのような考えを持つようになったのだ。

そして、私は気づいたら鉄道好きに戻っていた。
結局、好きなものはいつまでも好きなままだったのかもしれない。

就職活動もなんとか1社だけ内定をもらい、残りの大学生活は卒論と社会の荒波に揉まれる準備だけをする期間となった。
まあ、よく飲み歩いていたけれど。

2.社会人-苦しみから逃げる手段、パートナーへ

南海6300系

2014年4月、私は東京の某金融機関に勤めるようになり、社会人の第一歩を踏み出した。
今は感謝しているが、当時は本当にきつかったのをよく覚えている。
何をやっても上手くできない、毎日怒られる…大学でお山の大将気分になっていた私は一気に縮こまり、自分の人格まで否定されたような気分になっていた。

どこか遠くへ逃げてしまいたい…週末はそんな願望を叶えられる時間でもあった。
金曜日に指定席券売機へ走り、土曜から使う「週末パス」や「三連休乗車券」を購入する。
行き先はまったく決めず、翌日の朝になんとなく決めた場所への指定席券を買って、車内でビールやカップ酒を飲みながらぼーっと過ごす。
こんな現実逃避の旅を、私は毎週末のようにしていた。

結局2年目に体調を崩してしまい、会社を辞めざるを得なくなる。
その時も、鉄道旅は私にとって貴重なのんびりできる時間だった。
今思えばもう少しできることがあったはずだが、放っておいてくれた親には感謝している。

ここまででわかるように、社会人になった私にとって、鉄道は苦しいことから一時的に解放してくれる麻薬のようなものだった。
学生時代と比べると経済的余裕が生まれたことで行動範囲が広がり、特に東北や甲信越方面に向かうことが多かった。
能町みね子さんのエッセイに『逃北〜つかれたときは北に逃げます』という作品があるが、当時の私もまさにそんな状況だったのだろう。

そんな状況がしばらく続き、2020年。
新型コロナウイルスの蔓延で旅がしにくくなった。
実はこれ以前から、諸事情で仕事をするのが困難なほど自分を追い詰めてしまっており、旅行どころではなかったのだが…この世界的なパンデミックを契機に、私は自分を見つめ直す時間を設けることになる。
その結果、自分が好きで、得意なことで社会と勝負してみようと思うようになった。

その時ヒントになったのは、いろんな人からのSNSコメントだった。

私は大学時代から10年以上、インスタグラムを使用してきた。
当時はTwitter(現X)やFacebookがSNSの主流であり、インスタは今ほど一般に浸透していなかったし、TikTokなんてものは存在もしていなかった。
その中で私が思っていたことや現状などを赤裸々に語っていたのだが(今思うと恥ずかしいなんてものではない)、よく見ると多くの人がコメント欄に「これほどわかりやすく自分の現状を文章にできるのも、一つの才能かもしれませんね」という趣旨のメッセージを書き込んでくれていたのだ。

あー…そういえば、文章を書くのは嫌いじゃないな。
そして自分の歴史をざっと振り返ってみると、言葉を使って何かを伝えるとか、説明することにおいては他者からの評価が非常に高いと気づいた。

だったら、それを仕事にしてみてはどうか。
まずは半年ほど頑張ってみて、上手くいかなかったら「わっはっは」と笑って次の道を考えよう。
素直に、そう思ったのだ。
自分でも単純すぎてアホだなと思ったが、これがライターを仕事にしようと真剣に考え始めた瞬間だった。

ネットや動画サイトを参考にしながら見よう見まねで準備し、2021年の4月からライターと名乗るようになった。
最初はWebだけでのんびりやっていこうと思っていたが、たまたまTwitterで鉄道雑誌の募集を目にし、応募。
その後私は、紙媒体の世界にも飛び込むことになる。

これが、私と鉄道の歴史だ。

ざっと今までの私の鉄道遍歴を振り返ってみたが、今の私にとって「鉄道」はどんな存在なのだろう。
色々考えてみたが、今のところ「パートナー」という言葉が一番しっくりくる。
かつては現実逃避の手段だった時期もあるが、今はそのようには見ていない。
仕事を共にする同僚というのはおこがましい気がするし、一緒に未来を見るパートナーのようなイメージが一番近いのかな、と思う。

いずれにしても、結局私の人生から鉄道は切り離せないものとなった。
こうなったからには、死ぬまで鉄道と向き合うことになるのだろう。

これからもよろしくお願いします。
でも今日のところは、回送列車で。

キハ261系「フラノラベンダーエクスプレス」

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