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教育改革の実現へ向けて② 自分で考える力を育む教育の重要性について

日本人に思考停止をもたらした管理教育

現在の教育の重大な欠点は、子供たちが自分自身で考える能力を養うことを阻んでいることだと思います。実社会では問題の答えは一つではないはずですが、学校で出される問題は、たった一つの答え以外は全てが不正解です。

すべては決められた通りに従い、それに外れることは許されない。こういった管理教育では、何の疑問を抱くことなく、誰かの指示通りに物事が実行できる人材が優秀と持てはやされます。その際たる存在が現在の政治家や官僚の人々です。今の政治や行政は上からの指示通りに動いているだけで、日本の国益に反することでも平気で実行してしまいます。

管理教育の危険性は、間違っていると気がついても、それに抗うことができなくなる。自分の意見や考えを言えない、もしくはそもそも意見や考えがな無い人を作り出してしまいます。

師の教えに泥むな

私が大学で学んだことで、一番大切だと思う学びは、「師の教えに泥(なず)むな」ということです。「泥む」とはぬかるむといった意味で、要するに「先生の教えにハマってはいけません」と、いう意味です。

国学に関する講義で、「この教科書のページに間違いがある。来週までに調べてくるように」と先生が言いました。翌週、ある学生が的確にその誤りを指摘したあと、「尊敬する先生の著書の誤りを指摘するのは嫌なことです」と言ったことが先生の逆鱗に触れ、正に火の出るような、烈火のごとく激しい怒りを受けることになります。

「こんな本が書ける人は、世の中にそうそう居ない。長年の研究の末、膨大な資料をまとめ、人々に広く理解できるように工夫して書いたのがこの本である。間違った表記をした本人だって気がついているし、これは学説がどうのというレベルの話でもない。君はこれを書いた先生に失礼だと思わんのか」

さらに、教授は続けます。

「師の教えに泥むなというのが、国学の教えだ」

憧れるだけでは、越えていけない

江戸時代の国学者である平田篤胤は、師である本居宣長の説いた、死後は全ての人が黄泉国(ゆもつくに)に行くという説を、否定しました。
人は死後、幽冥(かくりよ)の世界へ行く。生きている人々にはその世界は見えないが、向こうからはこちらの世界が見える。その世界は我々の世界と重なっていて、死者は我々を見守り続ける存在であると、篤胤は説きました。

そして自身が死んだあと、その「幽冥」の世界にいる妻と共に、師の宣長のもとを訪れ、春夏秋冬の景色を楽しみたい。そう語ったそうです。

貧い生活の中、学問に全てを捧げる篤胤を支えた妻は、病により31歳という若さで生涯を終えました。そんな妻が、黄泉の国というこの世と隔絶した遠い世界に行ってしまうとは考えたくなかった。

篤胤は『日本書紀』を始め様々な書籍を参考に、日本人がそれまで言語化してこなかった、日本人の死生観と死後の世界を初めて体系化しました。この思想はその後、戦死者を祀る靖国神社の創設に影響を与えました。

WBC決勝前、大谷翔平選手がチームメートに向けて、メジャーリーグのスター選手に対して憧れるのをやめて下さいと発言したことは、皆様の記憶に新しいことでしょう。

憧れていては、それを越えられない。

相手に敬意を持ちながらも、対等に力を交え切磋琢磨する。そして、より良い世界を切り開いていく。

日本人が忘れてしまった大切なことを、思い出すきっかけを与えてくれる、素晴らしいエピソードだったと思います。

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