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好きかどうか、スキかそうじゃないか

スキじゃないから興味ない?

そうではないですよね、好きが特別なのであって、それ以外は普通のこと。

でも人間はついつい好きじゃないことに思い悩みがち。

嫌いは嫌い以上でも以下でもない。

興味ないのは空気を吸って息をしていることと同じで自動的。

だから興味ない人には知ってもらって好きになってくれればいいなと思うのは自然なこと。

でも嫌いな人に好きになってもらいたいなんて、それってその人の思いを踏みにじることにはならないかな?

好きになろうが嫌いだと思おうがそれは周りの自由。

でも「私を好きになってちょうだいよ」

それじゃ自分の思いの押し付けやマウントしてくる周りの口で色々言う人たちと同じ、つまり同じ穴のムジナ

結局は同じ次元でしか争いは起こらない。

一方で、自分を生きている人々ほど自分のスキやキライをハッキリ周りにシェアする。

それによってより自分の輪郭がハッキリと浮き彫りになって、一層周りの人たちに知ってもらえるから。

この行動は「私を見て!」ではなく、「私はこんな人!」だということ。

つまり自分プロデュース能力。

その結果、様々な反応が本人とは無関係な場所で渦巻く。

テレビの中のワイドショーとか、雑誌のコラム、ネットニュース、SNSで。

どんなにバズろうとも、すべて本人には無関係なことなのだ。

メディアやSNSの仕組みはそのようにできているのだから当たり前。

だからSNSで自分語りしていると、なんかイヤらしい人となって誰からも見向きもされなくなる。

みんなと別の方向を向いて、誰にも関係のないことをコミュニケーションの場でやってしまっているのだから当然の結果。

人は誰しも自分を表現する過程において、自身や周りを思い通りにコントロールしようとする。

もっと好きなことをしたいし、嫌いなことをしたくないから。

そして周りは思い通りにならないと憤る。

変えられるのは自分だけであり、それさえも困難だから。

だから自分がコントロールできないことをやるのは時間の無駄。

自分とは無関係だったと気づけるのが関の山。

それには他人も勿論含まれます、その人たちの価値観も然り。

いかに近しい人であったとしても同様です。

基本的に自分の価値観が軸なので、それ以外は一切コントロールしなくていいのです。

自分を生きたとき、賞賛と批判が同じだけ降り注ぐでしょう。

明日の朝雨が降っていたとして、誰がその雨を止めようとします?

それと同じことでしょう。

最後にもう一度。

好きが誰にとっても当たり前となり、特別扱いしないで自然に接してあげられるようになればいい。

嫌いは自分の中のやらなくていいことリストに入っている事柄、だからやらなくていい。

好きじゃないは呼吸と同じ、無理に意識しないで。

大切なのは自然体で無意識に自分らしく。

さいごに

当記事を陽だまりさんにご紹介いただきました。
ありがとうございます。
ご紹介記事を読ませていただき、本文の最後の一文を追加いたしました。


タイトルフォト

ユキさんよりお借りしています。
ありがとうございます。

著者プロフィール

私、ナスノの簡単な自己紹介となります。
惹かれたら是非ご覧ください。

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