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雑多な雑感――NPOの戯言⑯

《たぶん普遍的なテーマ⑨》 神様と仏様(3)
(つづき)
 前回まで(「神様と仏様」)個としての人間の無力さを強調してきたが、集団となればそれはそれでやっかい。集合知とは真逆の実相が浮き彫りになることも。その典型がいわゆる宗教紛争。今回もNPO=のん兵衛・ポンコツ・おっさんが酔狂のなか、ちと眩暈も覚えながら大真面目に考えてみる(明日大雨でないことを祈る)。
 「宗教紛争」はフィクションに過ぎない(理路整然たる異論のあることも承知の助――インドなどは格好の事例か)。というのも、宗教の相違が殺し合いの元凶であるなら世界中戦争をしていなければならない。ところが異なる宗教宗派に満ちた現今、世界人口の9割9分以上は戦争をしていない。
 また、永遠に続く紛争はないが宗教宗派替えは紛争終結とほぼ無関係である。マスコミを含めてその事実を説明できていないような気がする。過剰に宗教対立を持ち出す安直さはときに罪でさえある。
 もっとも、宗教上の分派が次々に生み出されてきた歴史を俯瞰しても、あるいは宗教間の争いとされてきた戦争にも、禍根は残るもの。例えば、戦国時代の日本にも宗教を軸にした合戦は数多ある(例;織田信長の戦績を参照されたい)。現代にあっても旧ユーゴや南北スーダンに宗教を絡めてみることはあり得るだろう。ただ、いずれにあっても「異分子を排除せよ!」という権力者の常套句によって殺戮が煽られてきたことは忘れてはならない。
 キリスト教にもイスラームにも「いつもどこかで」というならば諍いはあったに違いないし現下も無いとは言い切れない。それでも、それらが常態であり続けていると断定するには多くの反例がある。少なくとも時間幅だけを射程にすれば平和裏の「共存」こそが――偽りや欺瞞に満ちていようが――常態である。
 そうかもしれないがそうでもないかもしれないという曖昧な言い分で恐縮だが、いかんせん酔っ払いの悪癖。
 ただ、神に恃むにせよ仏を拝むにしても――争いとは人間の不安の顕現であることだけは間違いないのでは?

◆注:ユダヤ教とロシア正教との違いにもかかわらずネタニヤフとプーチンは似たもの同志、気が合うのではないか? もっとも彼らにとって宗教は利用すべき対象なのだろうが。
◆推し文献:なだいなだ『神、この人間的なもの』(岩波新書、2002年)、菊池章太『ユダヤ教 キリスト教 イスラーム――一神教の連環を解く』(ちくま新書、2013年)。


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