見出し画像

「死にたい」について。

私はよく「死にたい」と思う。
これは、比較的交友関係が派手だったり、いわゆるスクールカーストと呼ばれる組織内ヒエラルキーで上位に座したりする人々が例えばパチンコで数万円を溶かした時に発する「死にてwww」とは完全に異なるものである。

簡潔に言えば、私の「死にたい」は「楽になりたい」に近いのだと思う。
より深掘りして言うのであれば「なんとかしてくれ」「甘えたい」という幼児的な欲求の発露である。

私は幼少期に少々複雑な家庭の事情に巻き込まれたり、ADHD当事者であったりする背景もあってぼんやりとした絶望とうっすらとした希死念慮を共にして人生の大半を歩んできた。
この世界には頼れる人間などいない、普通にすらなれない自分には価値が無い、そういう漠然とした自己否定を持つことが当たり前だと思って生きてきた。
その生き方しか分からなかった。
こんな人間にとって、この世はぬるま湯でじっくりと底冷えさせられているかのような生き地獄だ。
どう頑張ってもなかなか普通になれない、それでも完全なハズレ者まではいかないし、得意なことによっては人並みの成果を出せる。
それが故に自分も自分を諦め切れず、またとことん開き直ることもできない。
発達障害の人間特有の「凸凹」の激しさが生み出す、生ぬるい苦しみであった。

そんな生き方をしているので、当然歪みは生じた。
対人関係や学校生活、自分の考えられる限りで精一杯の”普通”で過ごしていても周囲からは「変わっているね」「無理してるように見えて痛々しい」という憐れみに近いイジリを受け続けた。

それでも、私は生きたかったのだろう。
学生時代に数回、三途の川の向こう側に片足を突っ込みかけたこともあったが、幸か不幸か逝ききってしまうことはなく明日を迎えてきた。
毎日のように真綿で首を絞められるような苦しさと希死念慮が頭をよぎっても、歯を食いしばって今日を蹴散らし明日を求めた。

そんな中でひとつ、気づいたことがある。
「死にたい」私は「甘えている」のだ。
本当に死にたいのであればマンションの屋上から空に向かって一歩を踏み出しただろうし、本当に普通になりたかったのであれば思い描く生活水準を自分の身の丈に見合ったものに修正出来たはずだ。
それを出来なかった私はただ甘えていたのだ。

死にたい私(または同じように漠然とした希死念慮を持つ人)に必要なことは徹底的に「現実を生きる勇気」を持つことなのだろう。
先天的なハンデキャップや後天的にどうしようもない大きさの不利益を被った人間は期間に差はあれ、世を呪い生に絶望する。
それでも、1mmでも完全に消えることを決意しきれない気持ちが残っているのであれば、我々は現実を生きるべきなのだと思う。

現実を見据え誰かに然るべき助けを求めることと、とりあえず誰かに「辛いからなんとかしてくれ」と他人任せな期待を持つことは大きく異なる。
この事実を頭でも心でも理解し、生々しい今日をふてぶてしく生きる覚悟を持って今この瞬間から何が出来るのかを考えるしかない。

死にたい私たち、消えたい私たちへ。
楽になりたいと願うだけなら、現状の殻に閉じこもる方が容易い。
しかし、真の意味で楽になることを目指すのであれば、ほんのひとかけらでも勇気を出して現状を打破する一歩を踏み出してみるべきである。
今日より少し多く歩いてみる、今日より少し早く寝てみる。
これで良い。

このnoteを読んでくださったあなたの明日が、今日よりも幸せの気配がするものになりますように。
お目汚し、失礼しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?