見出し画像

これは1年前の8月の日記

2021年11月。
最近いつにも増して自堕落な日々を過ごしてる。
そういうときによくやる自分の日記を読み返して「まあこのときよりはマシか」と元気になるやつでもやるかと思ってずっと下書きにあった殴り書きの文章を引っ張り出してきたけど、今も1年前もどっこいどっこいだった。
人生てまあそんなもんか。
読んでてかなしくなったのは、1年前にスマホの画面がバキバキだとかなしんでいた私は
そのあと早々にスマホを買い替えたはずなのに今この文章を打ち込んでいる私のスマホ画面はまたバキバキに割れていることだ。
先々週くらい、スマホを手に持ったまま友達に手を振りかえしてバイバイしたときに落っことした。

さて、ここからは1年前の8月の日記。
今の私とどっこいどっこいに自堕落な私の話。
もうちょっと改行入れたほうが読みやすいんじゃない?うるせえ。

コロナが流行り始めて、何だかヒシヒシと、人間はなぜこうなのかと思う時がある。当たり散らしてばかりの人も怖いけど、こんな時だからこそ前向きに!な人はもっと怖い。ポジティブな人間ってなぜあんなにおそろしいんだろう。私もちょっとは見習って空とか見上げなきゃ。こんな時だからこそ作品を!といろんな人がズームを駆使して映像作品を作っているのを、美術小道具の私はこうなると美術小道具いらねえしな、と横目にスルーして過ごし、在宅勤務のできない現場仕事なのでもちろん仕事はどんどんなくなり、けどもたくさん眠れて嬉しいしここぞとばかりにこっそり脚本の勉強をすることにした。初めて長編脚本を書き上げコンペに応募してみたものの、読み返したら誤字を発見して「私って本当にこういう人間」という感じだ。どうせおじさんたちに読まれたって通じねえよなというテンションで書いたのでどうぞ落としてくれ。嘘、何かの間違いで1次くらいは通ってください。大人になるにつれ、謝りたい人の顔がどんどんたくさん浮かぶようになる。これからどんどんそういう人が増えていくのかと思うと絶望する。私はどの方向にも足を向けて眠れなくなるのか。もはや立って寝るしかない。ブラジルの方には今のところ謝らなきゃいけない人はいない。はず。そんな(どんな)思いを込めて書いた情けない作品、誰の目に止まらなくても私は1番好きだからいつか映画にしよう。
話は全然飛ぶけどTwitterでは正論かつ乱暴な意見ばかりが目につくからあまり本気で見ないことにした。
対応策として、積極的なミュートの活用、または裸眼で見るようにする(※目がとても悪いので自動的にあまりちゃんと読めない)。
Twitterを見る時間を映画を観る時間にあてたら、以前の毛羽立った心がすごくなめらかになった気がする。私は八方美人なのでヘラヘラと自分のキャパ以上のことを受け入れて結局処理しきれなくなってパンクする常習犯で、ヘラヘラしながら精神的中指を全方向におっ立てながら生きていたんだけど、なんだろう、この文字で表現し難い微妙な心の豊かさ。まだ中指は立ってるけど爪はもう伸びてません切りましたよ。くらいの微妙な心の豊かさ。よくわかんないですね。
例えば。ウッディ・アレンの「マンハッタン殺人ミステリー」で、奥さんが旦那に「自分の妻を殺して食べちゃった夫」の事件の話をするんだけど、それに対して旦那が、「人にはさまざまなライフスタイルがあるものさ」と返す場面がある。私は、この台詞がとても好きだ。
この台詞を聞いた時に、肩の力が抜けるような思いがした。私はこういう言葉がほしいし、こういう言葉をウッディ・アレンのように、サラッと誰かにあげたいんだと思った。この台詞は正しくないかもだけどとても優しい。Twitterを見ていて疲れてしまうのは乱暴な正論ばかり目につくからで、その正反対みたいなこの台詞に出会えた時、私はコロナの前より映画のことを好きになっていると確信した。映画がこんなにたくさんあってよかった。人生が足りないくらいたくさんあってよかった。観ても観ても観きれない。好きな映画も見返した。レ・ミゼラブルもギルバート・グレイプもグッドウィルハンティングもハリーポッターシリーズも。ネット上のよくわかんない人間のクソみたいな正論に傷つくくらいなら、映画を観た方がいいとちゃんと気づけた。第一、全員人生1回目のくせに何を根拠にそんなに自分が正しいということに自信があるのか。いやいや自信はあっていい、自信は大切、でもウッディ・アレンが言ってた、「人にはさまざまなライフスタイルがある」って。だから別に誰かに許される必要もないし許されようとしなくたっていいんだし君もわたしも何も恥ずかしくない!と、わたしの嫌いなポジティブ野郎みたいな感じになりつつある。※ポジティブは大事だけど他人に押しつけられるほどポジティブ有り余ってる人が嫌い。※かと言ってオシャレネガティブを装ってる人間もだめ。こいつ根はポジティブ側のポジティブ屋さんのくせにネガティブぶってるな、という人間を真のネガティブである私は一瞬で見抜く。何の話でしたか。
先月、どうしても映画館で観たくって大好きなジム・ジャームッシュの新作を観に行った。張り切って前の晩にチケットを購入し、楽しみすぎて早起きしすぎて、結局二度寝して1分くらい遅刻して、「私は本当にいつだってこういう人間」と落ち込みながら1分遅れで映画を観始めたんだけど、そんなわたしにもジム・ジャームッシュはとても優しかった。「この1分、なーんにも起きてないですよ〜」という感じで私を受け入れてくれた(気がした)。涙が出ちゃうくらい素敵なゾンビ映画だった。
ところで最近は仕事が再開し始めて、私はクーラーのない場所で働く時間が長い仕事なので暑さで溶けそうになっている。この夏仕事で出会った人はいつも怒っているように見えるので怖いなあと思っていたけど、今日初めて涼しい場所で話したら全然怒ってなかったので、あれは暑さのせいだと気づいた。マスクで苦しいよね〜と声をかけてくれた。良い人を見逃さないように生きないとな。
そういえば私は高校生の時、下校してたら同じクラスの男子が前を歩いていて、リュックのチャックが開いていたから「リュックあいてるよ」と教えてあげたことがあるんだけど、その男子にめちゃくちゃ嫌な顔をされて、教えてあげたことをすごく後悔した。大人になった今でも電車とかでリュックのチャックが開いている人を見るとそのときのことを嫌でも思い出してしまい、「大人のくせにリュックのチャック開けてんじゃねーよ」とまた精神的中指を立ててしまうのだが、私は大人のくせにメールの返信もろくにできないしスマホは1年以上画面バキバキのままだし料理も消しカスみたいなご飯しか作れないしここぞという時お腹くだすし多分リュックのチャック開けてしまっている全大人よりまったくダメダメだと気づき、静かに精神的中指をしまう。
大丈夫、今のきみの世界で生きているきみで充分だ。と、私は思うよ。
何言ってるかよくわかんないけど、全然恥ずかしくないよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?