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芸術は、そして創造は私たちを救う

どう考えたってやりきれない日があるものだ。胸の中は涙でいっぱいなのに、顔は無表情に固まったままで、なんとかかんとか1日を乗り切ったという、そんな日が。


仕事で失敗したり人間関係に疲弊したとき、いつもは帰りの車のエンジンをかけてひとりの空間になった瞬間に涙が溢れてくるのに、その日はなぜか泣けなかった。ひたすらに真っ直ぐ車を走らせる妙に無感情な自分を、どこか冷静なもう一人の自分が俯瞰している。透明なゴムを一枚隔てたような感覚のまま、近所のスーパーで油揚げを買った。今日は無償に鍋が食べたい。




帰って手を洗い、肌に馴染んだ部屋着に着替え、台所に立つ。愛用しているひとりサイズの土鍋は、冬になると俄然その登場頻度が増す。ころんとしたフォルムと艶のある黒い質感が気に入っているその土鍋は、たしか無印良品で買ったものだ。水を1カップとキューブ状の鍋の素を放り込む。今日はキムチ鍋にしよう。ポンと放り込むだけで簡単にひとり鍋にありつける鍋キューブ。一人暮らしを始めてからというものの、この子に何度助けられたことか。
冷凍庫からカットした白菜を一掴み取り出し、先ほどの土鍋へ放り込む。ガラスのコップを食器棚から取り出して、先日同僚から勧められて買ったスパークリングワインを注ぐ。まずまずの値段だったが、きっと今日が開けるにふさわしい。鍋を火にかけ、その間に椎茸と買ってきた薄揚げを適当に切る。ついでに冷蔵庫から昨日買った砂ずりを取り出し、ニンニクと一緒にフライパンで炒める。味付けはシンプルに塩胡椒。温かい夜ごはんが食卓に並ぶ頃には、私の固まってしまった心と身体も、だいぶんと緩まっていた。



何かを生み出すことが人を救うと言ったのは誰だったか。芸術に関わる者の端くれとして、私はずっと芸術の存在意義を考えている。

芸術は人を救う。享受する側はもちろん、創造することで自分自身が救われる。世の多くの芸術家は生きるために創作をする。お金を稼ぐとかそういうことではなく、文字通り生きるために。



歌人の岡本真帆さんと上坂あゆ美さんがTwitter上で定期的に開く「生きるための短歌部屋」というスペースがある。


生きるための創作。それは必ずしも高尚な芸術である必要はない。例えば、料理は一種の創造だ。


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おかざき真里『かしましめし (1)』


数ある私のバイブルのひとつである、おかざき真里先生の『かしましめし』では、主人公の千春が生きるために料理に活路を見出す様が描かれている。何かを生み出すことは想像以上に我々の生きる力になるのだ。


例えば、こうやって誰にも読まれないかもしれない文章を書いているのも、私が生きていくためだ。感情が冷たく凍りついた日や、どうしようもない不甲斐なさに涙する日、理不尽な怒りをどこにやったらいいかわからない日。

そんな日に私はPCに向かってひたすら文字を打つ。感情が言語化されてモニター上に紡がれていくにつれ、少しずつ感情の波が落ち着いてくるのがわかる。少し前に書いた同じような文章を読み返して、「ああ、この時もそうだったなあ」と共感とカタルシスを得る。そうやって自給自足しながら、私は今日も細々と生き繋いでゆく。


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