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せめて、ひと握りの勇気が欲しい

先週、今週とあまり調子が良くない。写真も撮れないし、文章も書けない。仕事している時だけはバリバリと働けるから良しとするが、文化活動が滞っている。とりあえず先週の日記から4日分だけ。



せめて、ひと握りの勇気が欲しい

2月25日(日)

近所の交差点で事故があった。オートバイの単独事故だ。
その時私は散歩中で、私の前には大学生らしき4人組が歩いていた。

突然、後方からすごい音がした。振り返ると、バイクが転倒していた。ヘルメットがカラカラカラ…と交差点を横切っていくのが見えた。私が「あっ」と思うより先に、前を歩いていた大学生たちがパッと走り出した。3人は転倒したドライバーのところに、もう1人は転がっていったヘルメットを追いかけて。私はその場に呆然と立っていただけだった。

幸い転倒したバイクの人は怪我もなく立ち上がっている様子だったので、私はそっとその場を立ち去った。

こういう時、私はどうして身体が動かないのだろうと腹立たしくなる。不測の事態が起こった時、十中八九フリーズしてしまうのは昔からだ。仕事でもプライベートでも、判断が他の人よりもワンテンポ遅い。自覚はあっても、いざそういう場面になると動けなくなるのは、頭で色々と考えてしまうからなのだが、何よりも自分の判断に自信が持てないことが原因だと思うのだ。せめて、一瞬遅れてでも駆けつけることのできる、ひと握りの勇気がほしい。


人生の幸せな瞬間は、金曜日の夜に訪れる

2月26日(月)

幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』より



つまり、人生で最も幸せな瞬間とは、連休を前にした金曜日の夜だということだ。

また今週が始まる。金曜日の夜に最も幸せな瞬間を味わうまでの長い道のりをゆく。



自分本位という生き方

2月28日(水)

誰かのことを「嫌だな」と感じると、ほぼ同時に、そう考えた自分自身に向けて「そういうお前はどうなんだよ」とか「そのくらい多めに見なよ」とか、複数の声が飛んでくる。もちろん、自分で自分に飛ばしている野次である。大変生きづらいな、と自分でも思う。

物心ついた頃からずっとそうやって、自問自答しながら生きてきた。自分の根源的な欲求や感情を、世間一般の価値観と照らし合わせて、是か非かを判断してきた。それが良かったのかどうかはわからない。比較的穏やかな人間関係を築くことのできる自負はあるが、一方で自分の感情を表出するのは恐ろしく下手なままだ。学生時代は、怒ったり苛立ったりという負の感情を人前で出すことが本当に苦手だった。それらの感情は私が認識する前に抑え込まれていることが常で、自分には怒りの感情がないのだとさえ思っていた。あるいは、分別のある人間であることが自分の正しい在り方だと考えていた節もある。

30代に入り、若く青臭い時代は名実ともに過ぎ去った。
自分は何者にもなれないのだということが分かったのと引き換えに、もう少し自分本位に生きてもいいのではないかと思い始めている。たいていのことは人生にとって取るに足りない。


ぼけますから、よろしくお願いします

3月1日(金)

Amazonプライムで映画を観た。


ああ、うちのばあちゃんもこうやって死んでいったなあ、と懐かしくなった。家族が呆けて、寝たきりになって、もう危ないですよと言われて、亡くなる。その過程をつぶさに記録することは、一般的市民である私たちにとっては倫理観が圧倒的な障壁となって立ちはだかるので、まあ難しい。そういうある種のタブーをあえて記録してくれている、これはそういう映画である。

笑っているところも、怒っているところも、泣いているところも、包み隠さず。私たちはこの作品を通して、自分と家族の過去や現在や未来を追体験することができる。

心がヒリヒリとする場面も多いが、お父さんが本当に可愛らしい方であることに大いに救われる。全ての現実がこういう風にはいかないだろうけれど、それでも救われる。

自分の両親の最期の瞬間にも、こういうふうに終われたらと思う。夫との最期の瞬間が、こういうふうであればと、強く思う。そのためには、今を大切にせねばならぬのだ。



年度替わり、何かと慌ただしい時期ですが、皆さまご自愛なさってください。私もぼちぼち頑張ります。

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