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【レフンvs小津=冗長の美学】

ニコラス・ウィンディング・レフン監督「ドライヴ」(2011年)

元来、現実世界の人間って、必要以上に誰かとずっと会話したりなんかしないし、

日本の民放のドラマみたいに、不自然にテンポのいい「掛け合い」みたいな会話なんか、なおさらしないわけです。

当たり前だけど、一日のうち、人はしゃべってる時間より、沈黙してる時間の方がはるかに長い。

じゃ、沈黙してる時、人は何を考え、どんな表情をし、それが他人からはどう見えてるのか、ってことを、この映画では再確認させてくれるわけです。

「冗長」の美学。

「冗長」とは「述べ方が長たらしく、むだのあること」「重複していたり不必要に長かったりして無駄が多いこと」という意味です。

「冗長さを美しく見せる」「冗長の美学」それがレフン監督作の本質ではないでしょうか。「オンリー・ゴッド」でもそれを感じました。

日常生活の「冗長性」と、創作物の中における「冗長性」とを、どう整合させていくか、折り合いをつけていくかというのが、映像表現者の腕の見せ所なわけです。

リアルな日常生活をそのまま忠実に映画に写し取ったら、人と人との会話なんか、無駄しかないし、変な間(ま)もあるし、噛みまくるし、当たり前だけど、とても表現としては美しくないわけです。

ドキュメンタリー映画だって、「書かれたセリフ」ではない代わりに、編集作業によって、生の人間の冗長さは調整されてるわけです。

この、ドライヴという映画の中のドライバー(ゴズリング)は、現実世界だったら普通の人です。

普通、というのは、こういう感じの男性だったら、無口で、あまり不必要にしゃべらないんだろうな、という意味での普通です。

でも、表現作品としての映画の中だったらどうでしょう。

「ちょっと、沈黙長すぎません?」
「もうちょっとしゃべったらいいんじゃない?」
「じっと動かないでどこか見つめてたり黙ってたりするシーンって、無駄じゃないの?」

と思ってしまいがちなわけです。

でも、私はそうは思いませんでした。

そう思わせないところが、レフン監督の演出力であり、ゴズリングの演技力であり、ストーリーの力なのだと思います。

日本の昔の映画、それこそ小津映画だって、「冗長の美学」なんですよ。

北野映画だってそうです。

笠智衆はあんまりしゃべらないし、しゃべっても間が微妙に長かったりする。

「いやぁ」とか「あのぉ」とかの、何だか間延びする、ちょっと不必要とも思える言葉がやたらとセリフにくっついてたりする。

テンポの速い現代の感覚だと、もうちょっとセリフをすっきりできないもんかなぁ、って思っちゃうところがあると思うんですが、

小津の世界では、この「冗長性」こそが、彼の作品を美しくしているわけです。

レフン映画と、小津映画の美しさとは、原理的には私の中では同じなのです。

「無駄の美しさ」。

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