見出し画像

「民主主義」が万能ではないとすれば、私たちの社会はどうあるべきなのか【280】

 先日、成田悠輔氏の著書『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』を読みました。極端に簡単に内容をまとめると、あらゆるデータに基づいて現在の民主主義の問題点を指摘し、いくつかの対応策を述べる中に、アルゴリズムを活用した民主主義の改善などが提唱されています。「なるほどー、うんうん」と思いながら読み進め、あっという間に合った読み終えたのですが、その時に自分が社会科教員として無知だったことに気付かされました。

 私はこれまで社会科の教員をしていた頃は「現代社会」や「政治・経済」の科目を担当していたので、授業の中で選挙の重要性を伝えたり、投票率の問題点などを改善する必要があると考え、そういった内容の授業もしていました。
 しかし今振り返ってみると、私自身も今の社会の在り方について再考するということはあまりなく、民主主義そのものの問題点について気づいていないことばかりだと痛感しました。

 そこで、今回は民主主義について著書を読んで考えたことをまとめておきます。「民主主義が人間の社会を維持するための究極のあり方」でもなく、「民主主義は何の意味もない」とも考えているわけではありません。これまでの人類が歩んできた歴史も参考にしながら考えたことを記録しておきたいと思います。

独裁からの救済

 先述のように、私は社会科の教員で、当時の科目名でいうと主に高校1年生の「世界史B」や高校3年生の「政治・経済」を担当していました。これまで争いの絶えない人類の歴史の中で、「民主主義」はこれまでの多くの過ちを繰り返し、やっとたどり着いた答えだと思っていました。

簡単な歴史の流れ(中世ヨーロッパ〜現代)

 世界史で「西洋史」の担当であったこともあり、ヨーロッパが古代から近代国家を作り上げる過程までをよく教えていました。中世あたりまでは、今の国家というまとまりはなく、宗教という結びつきや地方の有力者が共同体をまとめていました。その後、中世から近代に時代が変わるにつれて、宗教による結束が緩くなり、その代わりに国民国家というまとまり現れてきます。そして、国家間の争いは止められず、やがてヨーロッパだけでなく世界の多くの国を巻き込む戦争になってしまいました。

 1度目の大きな戦争を経験したヨーロッパでは、戦後の経済混乱が原因でファシズム国家が生まれ、民主主義とファシズムというイデオロギーの対立による大きな戦争が再び起こってしまいました。経済的に困窮している国家を放ったらかしにすることの問題に気づいた世界各国は、それまで進んでいなかった国際協調を複雑な形で進めることになりました。大きな2つの戦争を経た後も国家間の争いは絶えず、ファシズムとの闘いに勝利した民主主義も、そこから自由主義と社会主義のイデオロギー対立が起こります。各地の紛争は絶えない状況が続いていますが、世界規模での戦争は防ぐことができているという「一応の平和」は獲得したように思える状態になりました。

「権力の暴走」が何より危険

 私がこれまで歴史を担当している中で、「絶対王政」と「ファシズム」「独裁国家」が最も危険な時代だと感じていました。「絶対王政」については、近代国家のシステムを作る過程では必要だったものだという認識もありますが、その後の時代に生まれた私たちからすると、権力を一つに集中させることは国家の経済力を高める一時的な効果はあっても、長い目で見ればその権力に溺れ、あるいは維持するための行為に傾いていき、それに国民が振り回されるということもはっきりとしています。また、「ファシズム」「独裁国家」においても、イデオロギーとしては現在求められる多様性とは反対の位置にあります。そういった国家では、分かりやすい「仮想の敵」のイメージを膨らませ、国家としての結束を固める側面はあるかもしれませんが、最終的には国際協調には乗れず、グローバル社会の中では他国との間kねいがうまく築けなかったり、国民の自由度が担保できないリスクもあると思います。

 そのため、私は権力を一箇所に集中させることは行動が早く今回のようなパンデミックなどにおいては一定の効果を示したかもしれませんが、それでも私たちの基本的人権を守るという観点からも分散した状態で国民が最終的な決定権を持つ民主主義としての機能は重要だと考えます。権力の分散は、同時に行動までのスピードは遅く(慎重だという捉え方もできます)なりますが、それでも権力を持つ者は代表であり、その働きが不十分だと考えられた場合は、その権力を剥奪できるシステム自体は重要だと思います。
 しかし、私の考えはそこで止まっていました。問題は、著者が言っていたように、その決定の仕方や現在の仕組みを時代の変化に合わせていくことだと改めて考えることができました。

経済が全てではないが、平和に必要な土台

 近年グローバル化によって、経済活動の自由度が高まり、一定の恩恵を得ることができたと言えるでしょう。自給自足の時代とは異なり、複雑に絡み合っている社会の中での経済は人々の生活に不可欠なものです。自分たちの生活が命の危険があるレベルだと、人々は時に秩序を壊してまで自分を守る行動に出てしまうこともあるでしょう。そのため、生活の安定は重要です(ここでも生活の安定そのものが目的となってしまったり、安定の基準が人によって異なることでの問題などはあると思いますが)。

 グローバル化の進行による平和を享受する一方で、格差がより拡大していることも現実として起こっています。実際に、自国至上主義を掲げる国家や国際協調から離れる動きを見せる国も出てきました。また、今回のようなパンデミックによる大きな混乱も経験した私たちにとって、「今の政治は頼りない」と感じた人たちもいると思います。

 このように、人々の権利や生活を守り、地球規模での問題を解決することも求められる中で、今の民主主義が機能しているかというと疑問に思うところも多いにあります。現在の政治や経済の混乱が現実としてあり、「民主主義は滅びていくのではないか」という考えもいろんな著書や記事で書かれています。

 ここで本著で出される問題提起として、「民主主義を倒してしまうか、民主主義から逃げるか、民主主義を今の時代に合わせて作り直すか」という選択肢でした。私はこの問題的からいろんなことを考えることができたので、この本に出会えてよかったと思っています。

平和は維持する努力なしには続かない

 私は政治学の専門家ではないので、あまり詳しいことを述べられませんが、少なくとも、独裁やその永続をリセットする機能を持つ「民主主義」の役割は大きいと思っています。
 とはいうものの、民主主義の仕組みにも大きな問題はあり、世代間の人口バランスの不均衡や政治への無関心による投票率の低迷によって危機を迎えています。

 あまりに巨大になりすぎたシステムの中で、「自分が1票入れたところで変わらない」「政治のことはよく分からないから投票にいかない」など、生まれた時から人間らしい生活が送れる権利を保障された人たちにとって、選挙以上に娯楽がたくさん溢れている世の中では、非常に複雑化した社会を維持するための努力をするのは難しいのかもしれません。
 私も間違いなくその一人だと感じますが、自分の命の危険性を感じなくなった平和な世界が当たり前になってしまうと、そのありがたみが分からなくなるのはとても悲しいことです。民主主義は無関心が最も危険だという考えはよく表れていると思います。

何が問題なのかを考える

 今回は成田悠輔氏の著書から学んだこともありましたが、著書の中で紹介されていたものや、私自身が調べて参考になった記事などをここにシェアしておきます。

日本の組織に見られる精神「無責任の体系」

 これは丸山眞男という政治学者が、戦後に日本がなぜ悲惨な戦争を起こしたのかについて研究し、その仕組みにあった「無責任の体系」という考えを提唱しました。巨大企業など非常に複雑化した組織の中では、責任の所在がはっきりとしなくなり、誰もが自分のせいではないという意識が働いてしまうそうです。
 責任を感じない人が悪いというよりは、責任を感じないシステムを作ってしまったこと、そうならないシステム作りが重要だということを示しています。

悪の本質は「受動的にシステムを受け入れる」こと

 こちらは、全体主義を研究した哲学者ハンナ・アーレントが著した『エルサレムのアイヒマン』において、ナチスによるユダヤ人虐殺計画の実行についての「悪」の捉え方が解説されています。悪というのは、特別な感情を持った人が行うのではなく、ごく普通とされる人でも「悪」とされることをしてしまうこと、そして現代社会の中でどのようにそれを防いでいくのかについて示唆されています。

「後退する世界の民主主義」

 こちらは民主主義の今が理解できます。アメリカの民主主義の揺らぎやウクライナ戦争について、今の民主主義に問われていることがわかります。

多数決を絶対としない「コンセンサス型」の決定

 残念ながら、すべての人の望みを叶える政治や決定というのは存在しないため、物事を決めるには何かしらの決定手段を用いないといけません。しかし、全てが多数決で物事が解決するわけではないことも現実としてあります。ここで、ヨーロッパで特徴的なコンセンサス型の取り決めは非常に重要だと思います。
 あくまで最終的には多数決の原理を使うけれど、多数派でない人たちとの対話議論を通じて、社会をよくするためのヒントを得て、最終決定にそれを反映させることで、少数派の人たちが自分たちも意思決定に参加できているという意識が生まれ、分断は起こりにくくなります。

 私が住んでいるオランダでは、対話による調整を小学生達が行う練習をしています。決定したことにただ従うのではなく、うまく少数派にも配慮し少数派とされる人たちの要望もなるべく取り入れるような努力がなされています。「みんなが見ている方向は危ない」という考えを教えてくれたオランダに住む友人からもわかるように、多様性を活かす社会になるには、こういった決定が全てではなくうまく調整するスキルを持ち合わせておく必要があります。

これまでの経験を未来につなぐこと

 結論として、民主主義は成功だったのか、失敗だったのかという簡単な事柄では済まないということです。私たちは評論家になるのではなく、実践家としてこれまで人類が多くの失敗から築き上げてきたものを時代に合わせて変化させ、次の世代に繋げていかなければなりません。

 私たちはこれまでの経験を次に繋げることもできます。経験したことや失敗したメカニズムを解明し、それを次の時代に繋げるのです。現在の豊かな生活を享受できている人がいたとしたら、それは偶然そうなったのではなく、これまで時代を作ってきた多くの人がいるからです。そして、世界にはまだまだ貧困な状態にあり、その日生きていくことで精一杯の暮らしをしているたちが大勢いることを忘れてはいけません。

 経済的な豊かだからといって、精神的な幸福度が高いわけではありません。むしろ、経済的に貧しいとされる国においては、福祉を国家のシステムではなく、地域の人々が支え合うことで維持していることもあり、そのローカルな人同士のつながりの中に幸せを感じる人はたくさんいます。その一方で、多くの人が羨ましいと思うような金銭的に豊かな生活を送っていても、仕事に緊張感がある生活を送っていたり、物質的な欲望にまみれていつまでも幸せだと感じられない人もいます。

幸せは人とのつながりにある

 私もここ最近感じることは、「人の幸せは他者とのつながりの中にある」ということです。子どもの学習に関わる仕事をしていて、子どもたちと関わったり、保護者と子どものことについて情報共有したり、子どもたちが喜ぶ姿に幸せを感じられます。その時は、自分の中の自分を感じるよりも、他人の中に自分の関わりを感じることが喜びだということが分かりました。

 私が教員をしていて、国際交流の活動に関わらせていただいた時に、経済的に貧困とされる国への支援として、日本の技術を世界に届けようとするNPOや個人で団体に所属して活動している人たちとも出会ってきました。

 それぞれ個人や組織は、政府や自治体の動きをただ待つだけでなく、「今自分にできること」を考え、それを元に実行に移している人たちです。大きなことを成し遂げようとする前に、まずは自分の目の前にあるものに精一杯力を注いでいる人たちはみんな輝いて見えます。

 改めて、現在のような正解が分からない時代だからこそ、私たちは過去から学び、次の時代をどう創っていくのかを問われているのではないかと思います。だから今の現状に文句を言うだけで終わらせたり、誰かのせいにして終わっていては過去の過ちを再び繰り返すだけです。

 そのためにも教育の役割として、自分で考え行動できる人間を育てることが大切だとも感じます。

身近なところから「民主主義」を

 最後に、民主主義を改善するという大きなシステムに目をやる前に、自分の家族や職場仲間と「民主主義」を実現することが重要だと思います。物事をトップダウンで決めてしまい、それにただ従う、もしくはただ自分の思うままに指示を出すのではなく、メンバー全員と対話し何が必要なのか、何を変えなければいけないのかという思考が重要だということです。
 身近な人たちと民主的な関わり(対等な話し合い、対話によるコンセンサスの形成)が起こることで、それが広がり学校や組織、やがては政治にもそういったことが実現されていくという期待があります。

 まず私は家族や友人、生徒、仕事仲間とそういった意識を持って接するように心がけ、そしてそれがいろんなところに広がったり、同じようなことをしている人たちと繋がっていけたら嬉しいです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?