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海外で日本語が伸びる理由・伸びない理由は「親子の関係性」にある〜継承語教育4年の記録[421]

 日本の公立高校の社会科教諭から、2020年に継承語教育として日本語を学べる学習教室をオランダで開設し、子どもたちに日本語を教えるようになって4年が経過しました。高校教諭時代は社会科を専門科目として教えていましたが、こちらでは広い学習ニーズに応えるために、年齢や科目の幅を広げてサポートをしています。いろんな年齢、いろんな科目をサポートする中で、これまで気づくことができなかった大切なことが見えてきました。今日はそのことについてまとめておきたいと思います。

 継承語として学ぶ日本語は、母語として日本語を習得している子たちの国語や算数(数学)などの学習とは異なります。日本語としての語彙の習得がゆっくりになるので、算数や他教科において内容は理解できるけれども、書いてある文章が理解できないということが起こります。
 このように日本国内とはまた違った環境下で行われる継承語教育ですが、その中で見えてきたのは、学習の本質である「質×量」がそのまま影響するということです。
 それでは日本国内の学びと比較したり、小学生における継承語教育がうまく継続できることについてまとめていきます。

日本で生活する生徒たちの学び

 まず日本で生活している場合の言語環境について見ていきましょう。学校で学ぶ科目が日本語であること、日常生活で看板や標識、映像や音楽など、大量のインプットが行われるために、量が保証されています。そこに本人が持つ能力と学習の「質」が影響して、最終的な子どもの生きる力が形成されます。そう言った意味では、定期テストや入試が暗記すれば通過できるようなものである場合、学習の質が大きく低下するので学力的な伸びが停滞することもあります。

この部分が理解できないという判断が苦手な高校生

 大量の暗記で定期テストや入試を乗り越えてきた生徒たちのレッスンをした時、「自分の言葉でまとめる」「これについて自分の考えを述べる」ことが非常に苦手になっています。ここでこそ、自分の頭から出てきたアイデアを存分に出して欲しいし、それが学びとして楽しんでもらいたいところなのですが、そういった機会がないまま10代の後半になってしまうとすっかり脳が固くなっている印象があります。

 むしろ、答えが合っているか合っていないか、ある事項についての説明などは、今の授業の主な活動にはあまり必要ないことだと思っています。私が理想とする授業は、「ここまで自分で考えて取り組んでみたけれど、この部分がよく分からなかったから、そこを説明してほしい」「自分はこの問題や課題について、こう考えてこいう風に進めていきたいんだけれど、何か足りないような気がする」というような、自分が主体となって学びを進め、自分だけでは解決できないところで他の人と協力したり、先生にサポートをもらうことといった内容です。そして、こちらからは本人の気づきを促したりいくつかの提案をしていく中で、やがてはそういった選択や決断を自分でできるようにしていくようにしたいです。

 そのため、「とりあえず最初から全部説明して欲しい」「考えたけれど分からなかった」については、まだ授業への準備が足りないということで、事前に考えて分析して「何が分かっていて、何が分からないのかを明確にする」ことを生徒たちに伝えています。

継承語の場合はどうか

IBDP日本語Aの高校生

 まずは、同じ高校生で比較してみたいと思います。高校生で単に日本語レッスンを受講するという生徒はいません。たまに中学生の生徒が「日本語でのエッセイを書くトレーニングをしたい」と受講してくれることがありますが、ほとんどは国際バカロレアのDP(高校生)のカリキュラムで日本語が必要になる時に受講してくれます。

 IBDPの日本語Aを受講する生徒は、家庭言語が日本語として確立されている家庭が多く、家庭言語が複数ある場合は日本語を選択しないことが多いように感じられます。日本語Aとしてレッスンを受講している生徒たちは、日頃は学校では英語で学んでおり、日本語は継承語として日常の家族や友達との会話にとどまることが多いです。
 もちろん、日本で生活していた年齢や年数によって異なりますが、IBではどの科目においても基本的にはプロジェクトベースで、グループワークやディスカッション、テストはエッセイ形式のもので学んできているので、とにかく自分の意見をまとめて話すという能力についてはかなり長けているように感じます。そのため、仮に日本語の語彙力が少し足りなかったり、漢字などで苦労することはあるものの、そもそもの発想力や分析力は高いので、エッセイを書く時のハードルはあまり高くありません。日本語のエッセイとして足りない表現や語彙は、生徒たちのモチベーションや意欲に支えられて、授業や自分で文学作品を読む中で強化されていきます。
 一方で日本の大学入試の小論文のサポートをする時、IBのような学びのスタイルではなく、いわゆる一方向型の学び、そして答えが決まっている形式のテストで学校で学んできた生徒たちは、自分たちのアイデアを出すトレーニングを受けていないために、言語については問題がなくても発想力や分析力が乏しいことがあります。ひどい場合は、こちらにどう書けば良いのかを求めてきてそれをそのまま小論文として書こうとする生徒もいました。

 私はこの2つの事例を比較して考えることがよくあります。「言語はできても発想・分析力がない」のと「言語(日本語だけを見て)は少し苦手でも、発想・分析力がある」のと、どちらが将来社会でたくましく生きていけるのかの問いの答えは明らかです。

小学生の継承語クラス

 私は元高校教諭なので、小学校の先生の経験はありません。しかし、現在の日本語クラスの半数は小学生の子どもたちです。小学生の教育が専門ではないものの、学習の本質は押さえておきたいと思っていたので、以下のようなことに気をつけています。

 小学生クラスでは、低学年(1~2年)の間は遊びを中心として読み書きをストレスなく少しずつ進めていき、中学年(3~4年生)は2年生までの漢字を定着させつつ、最低でも2年生レベルまでの読解問題はできるようにしていきます。読解問題といっても、単に答えを入れて完成させるのではなく、本文の音読と要約、質問と答えを自分の言葉で説明することをしています。とにかく自然に日本語で説明ができたり、考えをアウトプットできれば高度な学習にも活かせることを期待しています。そして、作文も基本的には毎週書いてきてもらいます(お題は日記だったり、みんなでテーマを決めたりなど)。
 高学年(5~6年生)になると、日本語の力に差が出てくるので、それぞれの子たちに合うレベルで漢字や読解問題などを設定しています。あとは、子どもたち同士の自然な関わりも大切にしたいので、スナックタイムや自由遊びの時間を作って、自然な日本語を引き出す機会も作っています。

日本語が伸びる子〜「親子の絆」が日本語で育まれている

 継承語としての日本語は、インプットの機会がかなり限定されている場合、大人が想定していた通りにいくことはほとんどないと思います。たとえば学校で英語で学んでいる場合、そもそもアルファベットとは異なり、漢字は形が複雑で意味がぼんやりとしており、そこから派生して読み方が変化するため習得するのに非常に苦労します。ましてや音読みの熟語などは、その子の語彙力が伴っていないとなかなか覚えられないのですが、それはインプットが少ないから仕方のないことです。そのため、私は訓読みとしてのイメージしやすいところから漢字を学び、その意味が理解できたら少しずつ熟語も進めるようにしています。とはいっても、訓読みでも場合によっては学習がなかなか進まないこともあります。

 しかし、できなくても前向きに学ぼうとする子たち、あるいは難しいことがあっても日本語自体を嫌いにならない子たちにはある「共通点」がありました。それは、「親子関係が良好」であることです。これは子育てや親子関係の基本であるとも言えるようなことですが、日常生活の中で継承語としての日本語のつながりが最も強いのは保護者であることが多いです。子どもが保護者のことが大好きで、そこで行われる会話が日本語である場合、レッスンの中でも子どもたちは頑張る姿を見せてくれます。なぜなら、「成長した自分を見せたい」「もっと話せるようになりたい」という欲求があるからです。私自身も間違えることは悪いことじゃないと伝えてはいるものの、そういった良好な親子関係によって大変な日本語学習が支えられていると強く感じます。

日本語が伸びない子〜「親の管理下」で業務として日本語をやらされている

 海外で日本語を維持するのは本当に難しいことで、保護者のその不安が強くなってしまっている場合、どうしても「日本語に触れる機会を作らなければ、どんどん忘れていってしまう」という気持ちから、毎日何かしらの日本語の勉強を「させる」家庭もあります。確かに、インプットの量を増やすという考え自体は間違いではありません。たとえば、日本語を話す友達や家族との関わりを増やすことは良い効果が期待できます。
 しかし、インプットを増やす方法に問題がある場合には注意が必要です。私がこれまで4年間いろんな継承語として学ぶ子たちをたくさん見てきた中で、インプットの量をドリルや問題集など機械的なもので増やしても、そうしていない子との差はさほど出ないということです。もちろん、日頃何もしていない子たちと多少読み書きの差は出ますが、高学年になった時に日本語を嫌いになっていることが多いので、おとなしく言うことを聞いていた時までの習得で止まっていることが多いです。

 小学校低学年の頃は、まだ子どもたちも言うことを聞いてくれることが多いので無理やり取り組ませることはできるかもしれません。また、そういった取り組みが一時的に効果を発揮するのでそこで「うまくいっている」と勘違いされる方も多いように思います。これについては教育に関する著書『教育の効果』にも示されている研究結果です。
 しかし、保護者が管理するということは受け身で学ぶことを学ばせているようなものなので、子どもは次第に「日本語ができるようになる」という本来の目的から「日本語のワークをさっさと終わらせる」という作業の目的化に変わっていきます。それでも保護者の立場からすると、「やらないとどんどん忘れていく」という不安に駆られるため、それを止めることができないままになります。そういった子たちは、レッスンの中ですぐに終わらることができるものを要求してきたり、失敗を避けようとして難しい内容にはあまり取り組みたくないという主張をしてきます。本来の日本語学習の目的がずれてしまっているので何とか元の目的に立ち返りたいところなのですが、週に1度のレッスンだけではそこを変えることは非常に難しくなります。

できていないところ(引き算)ではなく、できたところ(足し算)をみる

 また、管理するということは、子どもができない場合「管理する保護者の責任だ」と勝手に考えてしまうことが多くなります。しかし、継承語としての日本語は常に足し算で考えないと継続的に取り組むことが難しくなります。
たとえば、漢字を10個勉強したとして、その中で1個だけ覚えていたとしましょう。「10個もやったのに1個しか覚えてないの!」と声をかけるか「1個はちゃんと覚えられたんだね!嬉しい!」という声掛けでは、同じ結果でも子どもの受け止め方は全く異なります。その積み重ねによって子どもの自己効力感や学びへのモチベーションが高まることで、その後の日本語学習に大きく影響してきます。そういった視点は、私も親として心がけたいと思っています。

自己矛盾がないかをセルフチェック

 そして最後に、保護者自身が自分の思いと行いに矛盾がないかをセルフチェックする必要があると、最近は感じるようになりました。保護者懇談をする中で、「子どもにはのんびり学んでほしい」という内容をおっしゃるのですが、いざ家庭学習の内容を聞いてみると無理やりドリルをさせたり、ノルマ制や報酬制で学習させているケースがありました。学習に対して報酬を与えることは決して悪いことではないのですが、保護者の管理下にある場合の日本語学習は時間や労力を割いている割に効果が発揮されないということも念頭に置かなければいけません。

親子の対話で日本語を育てる

 ここまで、私の4年間の経験として学んだことを記録してきましたが、これが決して正しいとか間違っているということを書いたわけではないということをご理解いただけると幸いです。私がこれまでに関わってきた子どもたち、継承語教育関連の書籍に書かれていたこと、他の継承語に関わっておられる先生との話し合いの中で、ある程度自分が見えてきたいくつかの共通項についてまとめました。ただし、こういった保護者の関わりは継承語に限らず、日本の子どもたちにも十分に当てはまると思っています。

 先述した「課題と報酬」について効果があるとされる研究もありますし、毎日コツコツやることも習慣化や定期的なインプットの機会が用意されるので決して悪いことではありません。ここで私が問題だと感じているのは、子どもの意見や考えを無視して一方的に(管理的に)何かをさせていることが問題であると言いたいのです。
 日常の会話の中で、日本語をなぜ学んでほしいのか、学ぶことで期待できることもしくは学ばないことで心配されること、それは脅しではなく本当の保護者の思いや不安をそのまま「私は、、、思ってるんだよ」と伝えることができれば、少なくとも子どもたちの中に保護者の期待に応えたいという気持ちが芽生えると思います。

保護者の不安はどこから?

 最近、教室を利用してくださっているお子さんの保護者の方から、「自分は日頃子どもたちともっと向き合いたいけれど、時間が十分になくて家のことで1日が終わってしまうので、あの子たちに寂しい思いをさせたりしていないか心配です。教室で子どもたちの様子で変わったことがあったら教えていただけますか?」という不安を明らかにしてくださいました。私はその言葉を聞いた時に、自分の日頃の行いを忙しいが故に振り返る機会がないまま不安が積もっているのだと思いました。
 しかし、その母親の不安とは裏腹に、そのご家庭の子どもたちはとても素直で、子どもらしく口喧嘩もしますし、自分が考えたことやその日あったことをどんどん話してくれます。また、教室でものびのび日本語を学び、自分の成長を誇りに思ってくれています。私はその姿を見て、「この子たちは、家庭できっとたくさん愛されているんだ」と感じました。そのことを母親に報告させてもらい、その人から違う視点から見た子どもたちの様子をお伝えすると少しは安心されていたように思います。
 日本国外での子育てとなると、言語の問題だったり日本ほど頼れるコミュニティがなかったりすることで、日本よりも孤独を感じやすい環境になりやすいと思います。そのため、自分が目まぐるしく忙しくなると自分が十分に子どもたちと関わことができていないという不安が強くなるかもしれません。実はそうでなくて子どもたちは、母親が大好き!ということも十分あります。今回はそういったことに気づいていただける良い機会になって良かったです。

 このように家族というコミュニティを超えて、いろんな人たちで子どもたちの成長を支えられる力添えができるよう、学習サポートという立場でできることをやっていきたいと思います。

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