くろ・しろ・みどり③
コロッケを食べた夜は、なかなか眠れない。消化されずに残った油と炭水化物が寝返りのたびに波打って、何か悪いことが起きそうな気がしてくるからだ。ソファに寝そべった環さんのにぎやかな寝息を確認すると、ハルはそそくさと部屋に駆け込んだ。最新式から10年は遅れているであろうノートパソコンを開くと、指が勝手に動画サイトのURLを打ち込む。たっぷり2分ほど読み込みバーを眺めているうちに、液晶画面は急に刺すように光った。目の周りを黒く縁取り、赤い革手袋をはめた少女のシャウトが響く。10年と少し前に太平洋の向こう側で大々的に売り出された曲は、20歳を少し過ぎたハルの一人の部屋を埋め尽くしている。ハルは一年間に30回はあるであろう眠れない夜の間に、250回くらいはこの曲を聴いている。
マコトに初めて話しかけられた日は、その年が始まって24回目の眠れない夜の次の日だった。いつもより一本遅い満員電車から吐き出され、最寄り駅であることを疑うほど長い通学路を歩いている間も、有線のイヤホンからはあの曲が流れていた。横断歩道の手前で、曲の再生画面をふと確認する。残り時間はあと5秒。ハルは急に寂しくなった。眠れない夜が終わって、起きてしまった朝に引っ張り出されるような気がした。一曲リピート再生のボタンを押そうとした瞬間、音楽プレーヤーは手からするりと逃げ、同時にイヤホンも耳から引きはがされた。なんてこった。眠れない夜の終わりを嘆く間もなく、ばさっと音が聞こえそうな動作でひびの入ったプレーヤーが目の前に差し出された。イヤホンの二つの先端は情けなく垂れ下がり、地面すれすれを彷徨っている。動きのがさつさに対して、その腕は血の巡りまで見えてしまいそうに白く透き通っていた。
「どーぞ」
柳木マコトは、薄く血色の悪い唇をきゅっと引き上げて調子の良い笑顔を向けていた。熟練の職人が迷いなく切り込みを入れたような一重瞼に、触ると痛そうなシャギーカットの金髪。スクールバッグには手のひらサイズの水玉リボンと、お尻を出した耳の大きいサルのマスコットがぶら下がっている。同じ2年C組の生徒だということは知っているが、一緒に弁当を食べたことも授業中に雑談したこともない。しかし、彼女が視界に入るたび、出どころ不明の平成初期の空気に胸がざわつく感じがした。きっと関わったらまずいことになる。ハルは申し訳程度に頭を下げると、いつもの2倍の速さで歩き出した。
「ねー。何聴いてたの」
マコトはハルの背中に間延びした声を投げる。振り向いたら負け。長引かせたら終わり。面倒な相手のあしらい方について、ハルは相当熟知している自覚がある。
「『さんぽ』です」
「嘘だあ。誰が革ジャン着てジブリ歌うのよ」
「なんでもありの時代でしょう」
「だからって、そこをあえて聴くことないでしょ。てか、明らかに英語のタイトルだったし」
「勝手に見るのはマナー違反だと思いますよ」
マコトは少し黙る。今だ。ハルは歩くスピードをもう少しだけ早めて、プレーヤーがきちんと起動するのを確認する。
「え待って」
イヤホンをもう一度耳にはめようとすると、思ったより近くまで来ていたマコトの声が図々しくも入り込んだ。
「隠されると逆に気になる」
「なんですか。新しいパワハラ?」
「えー、心外。何聴いてたか知りたいのそんなにダメ?」
「会ったばかりの相手に言う義理はありません」
「まあ、そうだけど」
「っていうか、今の曲は親にも教えてません」
「え、何それ。新しい宗教?」
「違います。せっかく自分だけが見つけたんだから、簡単に他人に教えられるわけないでしょ」
「そんなことはないでしょ。少なくともアメリカ?イギリス?の人はあんたより早く出会ってるよ」
「そういう話じゃありません。その人たちの聴いてるのと私のじゃ全然違います」
「わっかんない。誰かと一緒に聴いて共感したいとか感動したいとか、思ったことないタイプ?」
「わからなくて結構。ってか、タイプとか言うのやめてくれません?」
面倒な相手はあしらえても、分からない相手にはムキになる。関わりたくない相手ほど突っかかりたくなる。ハルが自分の面倒な性分を自覚したのはこのときだった。
25回目の眠れない夜はその次の日に来た。ハルはまた一本遅い満員電車に乗り、横断歩道の前で一曲リピート再生のボタンを押し、マコトに曲名を教えなかった。
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