盗難届

昼間の散歩中。車の下にいた茶色い縞の子猫が、カンちゃんの足音に驚いて去っていく。斜め後ろを歩くおじさんが「あれあれ」と穏やかに笑う。カンちゃんのお気に入りの緑の帽子が、風に飛ばされて見えなくなる。見ていた長い髪の女性は、申し訳なさそうに立ち尽くす。カンちゃんは会社勤めをしていない。おじいちゃんは「甘えていられるのは今だけだ」と肩をそびやかす。親戚のおばさんは「まだ若いから」と肩を叩く。カンちゃんは昨日、恋人と別れた。友達は「辛いよね」と涙を流す。幼馴染は「次があるよ」と大量の酒を勧める。

「これ、盗難届出すべきだと思うんだよね」

水出しコーヒーが目の前に置かれたとき、カンちゃんは確かにそう言った。私は耳を疑う。カンちゃんは涼しげな奥二重の目を細め、眉根を寄せている。なんで、の次の言葉が出ないうちに、カンちゃんは半分残ったコーヒーにミルクを大量に入れる。澄んだ黒に、脂っぽい白。濁ってかさを増したそれは、大雨の日の川みたいだ。
「感情を盗まれてるでしょ」
「ちょっと意味がわからない」
だよね、とカンちゃんは少し笑う。諦められたみたいでちょっと悲しい。
「まず、私は猫が好きじゃない」
「それは知ってる」
「私も猫も、お互いにとって一番いい距離をとっただけ。そこに微笑むおじさんはいらないの。猫に逃げられたかわいそうな子にしないでほしいわけよ」
「そんなつもりはないでしょ」
「そうなんだよ。だからだるい」
カンちゃんはグラスにストローを躊躇なく刺して、一気にかき混ぜる。溶けかかった氷がコロコロと音を立てる。
「勝手に解釈して共感するって、そこに当てはまらない私を消すことでしょ。私の感情、盗んでるでしょ。無意識にそんなことされちゃ困る」
カンちゃんが持ち上げたグラスの跡を、私は意味もなく観察する。薄くなったカフェオレを見ると、昼食を90円のアイスコーヒーで済ませていた学生時代を思い出しそうだ。時間経つとおいしくないでしょ、と言おうと思ったがやめておく。カンちゃんが何に怒って何に喜ぶのか、どんどんわからなくなる。

「会社どう?」
カンちゃんはストローから口を離して、息継ぎのついでのように言う。
「まあまあかな。今はとりあえず言われた通りやるだけだけど。来月には給料上がるし」
「へー。最高じゃん」
「なに、入る気あるの」
「会社勤めは絶対しない」
「ああ、そうだったね」
小学生の頃から、カンちゃんのきっぱりした口調はしばしば私を救ってくれた。私の丸い腹を笑う男子たちも、縮れた髪を憐れむ女子たちも、カンちゃんに「ダサい」と言われればたちまち怯んだ。だけど最近、カンちゃんはその口調で私まで拒絶するようになったように思う。時計は午後三時を指している。あとの二時間、カンちゃんから拒絶されずに過ごせるか。私は考えを巡らせる。
「あ、あのネックレス。もう捨てた?」
やっとのことで口に出すと、勢いで声が裏返ってしまった。カンちゃんはふにゃりと笑う。
「まだしまってある。捨てたほうがいいんだろうけど、モノは気に入ってるからさ」
「え、それ前の恋人に憑りつかれない?大丈夫?」
「なにそれ気持ち悪い」
「別れたら、写真も手紙も全部焼いちゃう人いるじゃない」
「そりゃ紙類はそうだよ。でも貴金属はあいつと関係なく綺麗でしょ。あいつのお祓いのために元々好きなものまで捨てるって、それこそ憑りつかれてるじゃん。感情、盗まれてるじゃん」
「わかんないなあ」
「わかんないかあ」
カンちゃんは少し笑って、氷の溶け切ったコーヒーをすする。私も続いて、手付かずだったアイスコーヒーを口いっぱいに含む。薄くなった苦みと香りが、喉をつるりと通り抜ける。
学生時代の自分に教えてあげたいくらい、今の気分に似合う味だった。

「ていうかさ、盗難届ってどこに出すの」
次の言葉は案外つるりと出てきた。カンちゃんは薄い唇をキュッと結んで、少しの間黙る。
「うーん、警察の管轄ではないだろうし、親とかも信じてくれないだろうしね。とりあえず、今ミキちゃんに出したってことにしとく」
「え。じゃあ私、交番代わり?」
「そうなるね」
「やだよめんどくさい」
「えー。とりあえず今回のだけは受理しといてよ」
「受理って何よ」
「はい、盗まれましたね。って言ってくれるだけでいいから」
私は何一つしっくりこないまま、「はい、盗まれましたね」と繰り返す。誠意が足りないと怒るカンちゃんを横目に、残ったコーヒーを飲み干す。

私はしばらく、カンちゃんの交番代わりになる。友達みたいに共感もせず、幼馴染として励ますこともなく、盗難届を受理するだけ。

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