くろ・しろ・みどり

一か月前、帰り道が消えた。中学校からも、最寄り駅からも、市民プールからも、行きつけの床屋からも、家に着くまでに必ず通る道だった。

なんてことはない。その道を通らなくても、ハルは長年の勘で家に帰ることができる。両肩にのしかかる単行本4冊分の重みも、汗に濡れて視界を遮る前髪も、真正面から突き刺す西日も、今までと変わらない。新しいイヤホンの充電を忘れたことだけが心残りだ。油蝉、暴走族、救急車。嫌いな音の渋滞をかき消してくれるものが一つもない。弁当箱を教室に忘れたマコトを置いて帰ったことを、ハルは今さら後悔する。いたところで話すこともないが、一人だと国道の音に吞まれてしまいそうだ。
消えた道のあたりまで来ると、ハルは音の鳴らないイヤホンで耳を塞ぐ。昨日ラジオで流れていた曲を口ずさみながら、右側の赤信号で止まる車を数える。夏休みの時期だから渋滞している。黒が3台、白が2台、赤が1台、黄色が1台、救急車が追い上げて…。黒い車が一台、左に曲がった。

見ないようにしていた左側が、あっけなく見えてしまう。
深いカーキ色の看板に、整った白い文字。清潔で静粛な深緑の建物。その中から黒い服を着た男女が数人、ふらふらと挨拶を交わしながら出てくる。さっきまで泣いていたようにも、怒りに押し黙っているようにも、疲れ切っているようにも見える。吹っ切れたように虚空を見つめる人もいる。ただ、笑っているように見える顔は一つもない。みんながみんな、笑うことを断固として自分に禁じているようだ。
ハルは、二か月前に観たパントマイムの劇場公演を思い出す。極限まで全身の彩度を落とした人たちは、「喪」というテーマで即興劇をする役者みたいだ。

笑える。

一瞬でも思ってしまったことを、ハルは猛烈に恥じる。なぜかはわからないが、超えてはいけない一線がそこにあるように思う。
つまらなく舗装されたアスファルトと、建物の周りに低く盛られた砂利。それらを隔てる塀の上を、落ちないように(落ちることも少し期待して)歩くことはもうない。この建物がレストランだったとき、それは確かにハルだけの帰り道だった。

あと5分で家に着くというところで、ハルは5年前のことを思い返す。まだ、レストランが葬儀会場になる前のことだ。
もう少し家から遠いところで、月島の通夜に出ていた。月島は幼稚園の頃からの腐れ縁だった。中学も高校も一緒に通ったのに、どうもヤツの顔を思い出せない。抱き合って泣く同級生の短いスカートも、担任の沈んだ眼も、棺に詰められたやけに可愛らしい花も、思い出したくなくても思い浮かぶのに。
もっと鮮烈なのは、棺に添えられた極彩色の色紙だ。中央に「月島、今までありがとう」の文字が大きく踊り、カラフルなメッセージが放射状に並んでいた。ありがとう、楽しかったよ、見守っていてね。学級委員の森下が目を腫らしながら渡すので、ハルも一行だけ書いた。緑色のサインペンで「ありがとう」と書いたら、それだけ?と眉をひそめられた。踏み絵みたいだな、と思った。
月島の棺がある部屋は、葬儀会場というより懺悔室のようだった。中学や高校の同級生が次々とやってきては、思いの限り泣いて帰っていく。彼らの泣き声も、色紙のメッセージも、放射状に飛んで月島には一つも届いていないように見えた。それでも、最後には彼らと同じように泣いた自分が悔しかった。なんで泣いたんだっけ。っていうか、月島ってどんな顔だっけ。

思い出せないうちに家に着いてしまった。環さんは夕食の買い物に出たようだ。
窓から差す光が弱まって、夜に近づいていることがわかる。部屋の明かりをつけると、一人の空間がさらに広く感じられた。

弁当見つかった?

マコトにメッセージを送る。すぐに既読がついた。見知らぬ青い髪の女性がサムズアップしているスタンプが続く。青空のような背景と自信満々の表情が妙に合っていて、不覚にも笑ってしまう。
ちょっと寂しさが薄れたついでに、ハルはリュックからメロンソーダのペットボトルを取り出し、一気に口に含んだ。炭酸はすっかり抜けきって、甘ったるい化学物質が口いっぱいに広がる。あの通夜の日にマコトがよこしてきたものと同じ味だ。飲んでいる間に、月島の顔を少しだけ思い出せるんじゃないか。そんな期待は、ペットボトルが空になる前に消えてしまった。

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