くろ・しろ・みどり②

環さんが帰って来たのは20時を回るころだった。鍵を閉めるのもそこそこに、今にもちぎれそうなビニール袋を二つ、ハルに乱暴に手渡した。そのまま「失礼」とハルを押しのけて廊下をずんずん進む。片方は長ネギが飛び出し、もう片方からは甘い揚げ油のにおいが立ち上ってくる。

「ごめん遅くなって。これ、お詫び」

環さんは首だけ振り返って、揚げ油のほうを指さす。牛乳パックと卵とその他諸々の上に、油のしみた茶色い紙袋が乗っている。牛肉コロッケ、20%引き。

「こんな時間に揚げ物買ってこないで。ダイエット中」

ハルが言い終わるより先に、環さんは脱衣室の引き戸を閉める。ぴしゃりと派手な音がして、反動で戸が半開きになる。環さんは自分が出した音に驚いて「おおっ」と声を上げた。環さんの動作に大きな音が伴うのはデフォルトで、決して怒っているからではない。そのことにハルが気づいたのは、ここ数か月のことだ。

「いらないならいいよ。全部食べる」

「食べるけど。っていうか大丈夫?コレステロールやばいんでしょ」

「うるさい」

引き戸の向こうからバシッと音がする。浅黄色のサマーニットを脱ぎ捨てたようだ。ハルは内心ほっとする。環さん曰く「客観的に一番似合う服」だそうだが、脆弱で柔らかい生地は環さんの生活音をすべて吸い取ってしまいそうで恐ろしい。ついでに「控えめに」一つだけ石をぶら下げたネックレスも、巻きの取れた後れ毛も、バシッと引きちぎってほしいとハルは思う。

「今日の人はどうだったの」

ハルは引き戸越しに言う。今頃、6時起きでしっかり整えたベースメイクを洗い流しているところだろうか。

「結構ありかも。少なくとも指毛までチェックするヤツじゃないことはわかった」

「ああ、じゃあ前よりはって感じだね」

ばしゃ、ばしゃ、と水音が返ってくる。明日の洗面台掃除のことを思って、ハルは少し重たい気持ちになる。

「確認しとくけど」

水音に紛れて、やけにはっきりした声で環さんは言う。

「結婚しても、あの人はお父さんにならないよ。私をお母さんって呼ぶのもなし。わかってるだろうけど」

はいはい、と受け流して、ハルはベランダからバスタオルを取り込む。ハルが環さんを「環さん」と呼ぶようになったのは、ほんのここ数年のことだ。


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