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私が選んだ私になる

日々の忙しさに忙殺され空虚で思考する余裕の無く鬱々としていたときが私はありました。

その時は「何のために生きているのだろう」とか「なぜ生きているのだろう」とか毎日のように考えていました。仕事もやる気はなく、ただ過ぎ去って行き、やりがいもなく、生活するのに精一杯で生活も楽しめず、ただ生きているだけの機械でした。娯楽はありました。しかし、楽しんでいる訳ではありませんでした。ただ、消費しているだけで感動も学びも何もありませんでした。

虚しい。

どこで考え方が変わったのかキッカケは覚えていませんが、7年ほど前に駅のホームで倒れたことがキッカケのような気がします。出勤中に急に全身に力が入らなくなり、吐き気と目前で乗り換えの駅のホームでへたり込みました。その後、色々あって仕事を辞めて、一時的に実家に帰りました。1週間ほどはただ母の作る食事を胃袋に入れ、ぼーっとしていました。散歩したかもしれません。本を読んでいたかもしれません。テレビを見たかもしれません。ドライブに連れて行ってくれたかもしれません。心を支えてくれていたかもしれません。よく覚えていません。

ある日、近くの川の土手を歩いていました。土手にあるランニングコースを川上に歩いて行くと大きな公園があります。ロケットを模した遊具を登り、こんなに低かったかと自分の身長が伸びたことに改めて気づきました。1番高い鉄棒で逆上がりをして、高い鉄棒でも逆上がりができるようになったかと思いました。広い芝生の広場の奥にあったステージが無くなっていました。河川敷にある人魚像が汚れながらもそこにまだ鎮座していました。川の流音を聞きながら、雲りがちの空を眺め、時折差す日の光に目を細くし、小さく笑みを浮かべました。

何となくですが、分かった気がしました。私が何に心を痛めていたのかを。

不平不満ばかり抱きつつ、実際には何もせずに現状のみに甘んじて、先に進む努力もせずただ言い訳ばかりして、お金が無いとか時間が無いとかモテないとか楽しくないとか幸せではないとか、全て私に起因することでした。

私が私を不幸にしていたと気づいたのです。

「世間一般がどう」とか「あの人はどう」とか「常識がどう」とか「流行がどう」とか膨大な人やものと比べて卑屈になり、自分を見失っていました。自分にできないことをどうにか今すぐできるように付け焼き刃な努力をして凹み、自分の知りたくないことを常識人振りたくて調べたり、優れていることがあると信じたくてよくわからない仕事をやり自尊心を傷つけ、参加したくもない楽しくない飲み会に参加して世間体を気にしていました。

私は私ではなかったのです。

私は私のために生きているのではなく、その場にいる他人が考える「普通」の私になろうとしていたのです。私はそんなことを望んでいたのです。私は私ではなかったのです。そして、他人達が考える「普通」にはなれないことに無価値感を感じていたのです。他人達の「普通」になれることはありません。他人なのですから。金銭感覚も価値観も住環境も社会環境も生育環境も社会的地位も容姿も心も違うのに普通にはなれません。私は「ただ」の私です。

私は良くも悪くも変化しました。大学も卒業しました。働くようになりました。少しばかりのお金を稼ぐようになりました。体も(横にも縦にも)大きくなりました。知識も(少しばかり)増えました。自立しました。私は数年の年月を変化しながら生き抜いたのです。あの公園も変わりながらそこにあって、変わらずにそこにありました。感じることは違っても幼い頃に味わった川の心地よさは変わりませんでした。今あることを幸福か不幸か、それを大きいか小さいか感じるのは私で、変えるか変えないか選択するのも私です。押し付けられた普通になるのではなく。

私がなりたい私になるのです。

現状の不満を1歩ずつ解消していけば、理想の自分に1歩近づけます。

「太っているのがお前だ」

誰が決めたのですか。

「2次会行かないの。普通行くでしょ?」

普通とは何ですか。

「なんで車買わないの?いい大人なんだから買うでしょ」

必要なのは誰ですか。

「なんでユニクロなの?いい服買いなよ。」

ユニクロは十分かっこよくて、機能的で私は満足です。

「なんでここに残らないの?他で働いても学べないよ。他も同じだよ」

私がやりたいことをやりたいのです。

選択権と責任はすべて自分にあります。決定した事によって、失敗もすることがこれから先もあるでしょう。しかし、私が私のために決めたことは私を強くしてくれます。進むも立ち止まるも私次第です。幸も不幸も私が作るのです。他人が「持っているから」「やっているから」「言ったから」では自分を見失ってしまいます。人生も命も価値観も自分のものです。たとえそれが周囲の他人と違うからと言って、否定されることではありません。自分の世界の中で完結できることはすべて自分のものです。その範囲内でやりたいことに・やらないことに挑戦し続ければ良いと私は思います。

自分がなりたい自分になるために何が必要かよく考え日々の生活に取り入れて、成長を急がず少しでも実感して半年後、1年後、10年後に少しでも幸せと思えるように悔いのない人生を歩みましょう。
自分の理想を自分で卑下せず笑わず、他人のためではなく自分のために何が必要か考え、選択し責任を負い決定して、充実した苦労をおくりましょう。きっと楽しいです。今私は楽しいです。

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