試験の信頼性と妥当性
二つの試験が終わった。どちらも全くもって合格点は望めないような感触だが、終わった。
一つは、医療事務の資格である「医療事務認定実務者試験」である。
自宅受験で資料閲覧可の試験である。
少し前に医療事務の仕事を探していたので、そのために資格を取ることにした。
月に一回実施しており、合格率も高いようだったので、5,000円も払って申し込んだ。
受ける頃には医療事務への就活は諦めたのだが、せっかくなので受験はすることにした。
ただ、勉強時間はとても取れなかったので、持ち込み可ということもあり、概要だけを公式テキストでつかむことにした。
そしていざ受けてみると、わかるようでわからない問題が多かった。
少なくとも、公式テキストだけでは不十分であった。
選択肢は基本的に正しい選択肢を選ぶものだったが、テキストを参考に「これが正解かな」と思うものがあっても、他の選択肢に明らかに知らないことが書かれている。その選択肢を不適だと断定できずに戸惑う問題が多かった。
たぶん、講座などで十分に勉強できていれば、その選択肢は排除できるのだろうけれども、少なくとも、公式テキストだけでは完答することは難しいようだった。
大抵の資格試験には、公式テキストがあるが、基本的には公式テキストの範囲内で出題される。
試験において範囲を絞るのは大事なことである。特に試験の信頼性に影響する。
信頼性とは、例えば、同じ人がその試験を何度受けても、同じ結果になるかどうかという指標である。同じ結果になるようであれば、信頼性は高いと捉える。
公式テキストの範囲で出題するからこそ、同じ人が何度受けても同じような結果が得られるのである。公式テキスト以外の出題部分が増えれば増えるほど、信頼性は低くなる。
もちろん、信頼性よりも妥当性を優先する場合もあるだろう。特に医療事務は実務に根ざした資格だから、実務の力を測るという妥当性を優先することも考えられる。
だとしても、それなら公式テキストをより妥当なものにすればいいわけだが、おそらくその妥当性を高めるプロセスに乏しいのだろう。
基本的には、医療事務は専門学校などで学ぶものという認識もあるのだろう。
確かに、テキストを読んだところで、医療事務の実務は何も身につかない。
そもそも、実際には就職の際に資格が必須ではないことも多く、現場の実態に応じてやり方を覚えていくのだから、医療事務についてテキストで勉強すること、そしてそれを確かめるための資格を設定することは、医療事務の実務とは乖離が大きいのだろう。
医療事務の求人で一番力を持つのは「経験」である。資格ではない。資格があるかどうかよりも、医療事務の経験があるかどうかの方が圧倒的に大事なのである。
だから、この資格は、医療事務を専門学校などで学んだ人の勉強を形にする方法の一つであり、その資格自体には実質的な価値がないのだろう。
僕のように医療事務を学校などで学んでいない人が手を出す資格ではそもそもなく、僕が取得しても価値が高くない資格なのである。
一方で、様々な資格マニア的な傾向のある自分としては、試験の実施方法やレイアウト、手続き方法などについても気になってしまうのだが、その点ではとても良い試験だと思った。
申し込みはインターネットで完結できるし、月に一回チャンスがあるというのも良い。これは、そうできるだけの作問や実施の工夫があるのである。
年に何回か実施される資格試験は、その作問を工夫しないと、実施が難しくなってしまう。特に信頼性は大事である。
同じ人物が、受ける試験の違いによって合否が分かれるような試験は、なるべく避けなければならない。
だから、年に複数回受験できる資格試験は、その出題方法や出題内容に工夫が必要なのだ。
その点で、出題方法が工夫されていたように見えた。簡単に言えば、同難易度の問題を量産できるようなものになっていたと思う。
また、実施方法も至ってシンプルである。
試験日の二日前には問題用紙とマークシート、受け方の説明(A3裏表1枚)が郵送される。この「受け方の説明」が端的でとてもわかりやすかった。この説明が煩雑でわかりにくい試験はけっこうある。
そして、当日の好きな時間に90分測って受験し、翌日までに書留で郵送すればよい。
もちろん返信用封筒も用意されているし、それほど手間ではない。
このように、自宅受験の場合には、実施の手軽さ、説明のわかりやすさも非常に大事である。
もちろん、それと合否とは話が違うので、そのあたりは妥当な評価が得られることだろう。
さて、本日二つ目の試験は、通っている通信制大学の「心理実習に係る理解度把握試験」である。
公認心理師の取得カリキュラムの中に、「心理実習」という科目がある。教員免許における「教育実習」のようなもので、実際の臨床現場で実習をする科目のことである。
これは必修で、この科目を修得しないと、学部段階での公認心理師の取得に必要な単位を満たすことができない。
僕が編入学したときには、所定の科目を修得すれば、この「心理実習」は必ず履修することができた。
しかし、一年前、急遽「理解度把握試験」というものが課され、その試験に合格しないと、「心理実習」は履修できないことになったのだ。
当時の先輩方は激しく抵抗した。
それはそうである。それまでなかった要件が追加になったのだから。中には、わざわざそのような試験がないことを入学時に確認して入ったのに、急にそのような試験ができては話が違うと憤っておられた先輩もいた。
何より、どのような試験が出されるかもわからない。また、急に受験日を設けられても、社会人学生にとって日程を確保することはとても大変なことである。
さすがに初年度はある程度の配慮もあったようだが、その試験によって不利益をこうむることになった学生は多かっただろう。というより、不利益をこうむらなかった学生はいなかっただろう。
それでは、なぜこのような試験が急遽導入されたのか。
ことの発端は、前年度の実習先でのトラブルらしい。どうやら、実習生の中に、実習先でクライエントとトラブルを起こした学生がいたらしいのだ。どのようなトラブルかは様々な憶測が飛び交ったけれども、とにかくそんな出来事があったらしい。
そのことを踏まえて、大学の決定機関で話題になり、急遽、実習希望者に対するペーパー試験を課すことにしたらしいのだ。
普通に考えて、この判断は納得できないものである。
まず、一人の社会人学生がトラブルを起こしたことで、なぜ次の代の学生達に学科試験を課す必要があるのか。
どう考えても、実習生のトラブルの原因は心理学的知識の不足ではあるまい。心理学的知識と、実習先でトラブルを起こすこととの因果関係はどれほど考えられるのだろうか。
せめてペーパー試験の内容が、対人支援上重要な事項に関するものならまだしも、試験内容は、なんと公認心理師の国家試験の過去問題のような内容だったというのである。
仮に対人支援上重要な事項に関する知識の有無を確かめたところで、その有無とトラブルとはどれほど因果関係があるだろうか。
ましてや、国家試験の問題である。公認心理師は、学部課程の後、大学院課程でも学ばなければならない。その上で受験するのが、国家試験である。そのような国家試験の問題を、学部課程の科目を履修するのに必要な試験で扱うのは、ちょっと無理があると思うのだが。
少なくとも、教育実習の前に、教員採用試験の問題が出題される試験があって、それで合格点を取れなければ、教育実習が受けられないという話は聞いたことがない。
これはおそらく、医学系の資格や、福祉系の資格でもそうじゃないかと思う。実習までに修得しなければならない単位はあっても、それが国家試験や採用試験の問題が解けないと履修すらできないなんてことはないだろう。
そもそも実習とは、座学の授業や書籍からでは学べないことを学ぶためのものである。あくまでそれは授業であり、学生は学生として実習を受けるのであって、対人支援職の支援業務を行うのではない。
もちろん、実習にあたって、実務として最低限必要なことはある。また、必要な心構えや、注意点もある。
だからこそ、実習には事前指導があるのであり、今回のような場合は、この事前指導を改善することが、トラブル防止には必要なことだったのだと思う。
実習に必要な最低限度の内容を、所定の科目の履修と、事前指導で行う。それが、基本的なカリキュラムの在り方だろう。
それなのに、ペーパー試験という、実習を改善するのに有効性の低い手段をもって、履修を制限するというのは、問題があるのである。
そもそも、実習では実習先が責任を持って教育するのが基本である。
もちろん、実習受け入れ先の大変さや、教育の手間もわかる。しかし、そういったことを踏まえて受け入れるべきである。教育できないのであれば、実習を受け入れるべきではない。
先のトラブルも、そもそも実習先が適切な教育や方法を取ったのか疑問である。そのようなトラブルを予期し、そのようなトラブルが起きないように実習を組むのもまた、受け入れ先の仕事だからだ。
実習の受け入れ先は、おそらく無償で受け入れている場合ではないだろう。少なくとも教育実習では、実習先に実習費用が納められている場合はある。
そうでなくとも、責任を持って実習生を受け入れるべきだし、そこで起きたトラブルは、受け入れ先の責任である。
公認心理師の国家試験のような試験を行うことには、公認心理師という新しい資格の問題点も関わっている。
公認心理師のカリキュラムは、アメリカの「科学者実践家モデル」が採用されている。公認心理師は、「科学者でありかつ実践家でもある」というモデルを目指して、カリキュラムが設定されているのである。
このモデルには様々な問題が指摘されている。
最も大きなものが、「科学者」に求められるものと、「実践家」に求められるものの乖離である。
前提として、科学としての実験心理学と、臨床場面での心理臨床とは大きく乖離しているということがある。
だから、「科学者」として必要な知識や経験と、「実践家」として必要な知識や経験ともまた、大きく乖離しているのである。
他の職域と比べると、この乖離をとても大きく感じる。少なくとも教育学では、「研究」と「実践」はここまでの乖離は感じられない。
なぜなら、教育や福祉で想定している「研究」は、「実験心理学」が想定している「研究」よりもずっと多様だからである。だから、教育学の「研究」と「実践」は比較的両立しやすい。「実践」に近いことが「研究」として成り立つからである。
一般に「心理学」と言うとさまざまなものが想起されるが、学問的には「実験心理学」を指して言うことが多い。例えば、実験によって得られた量的データを用いて研究をするような学問である。
(現代で言う「心理学」のことを、河合隼雄は「実験心理学」と一括りにして呼んでいたので、ここではそれに倣う。「実験心理学」とは、狭義には実験を用いて研究する心理学のことだが、ここではもっと広い意味で用いている。)
この「実験心理学」の「研究」にはかなり制限があり、そこには「科学」としてのプライドがあり。それが良さでもあるのだが、それは「臨床」とは相性が良くない。
それなのに、「実験心理学」の「研究」を公認心理師に求めるものだから、話がおかしくなるのである。
そこには、未だに「実験心理学」と「心理臨床」とが棲み分けできておらず、同じ「心理学部」の中に住まい、「公認心理師」のカリキュラムにも実験心理学が入り込んでいるという事情がある。
個人的には、「公認心理師」のカリキュラムに、実験心理学は不要だと思っている。「科学者実践家モデル」ではなく、実際の臨床場面で専門性を発揮できることを重視した「専門職モデル」を採用すべきだと思う。
もちろん、「心理学部」を卒業する上では、実験心理学の授業を受けられた方がいいし、特に基礎心理学を学んでおくことは、臨床に役立つ面もあると思う。
しかし、資格に必要かといえば、必要ないと思う。教養として知っておいたほうがいいということと、職業の専門性のために必修とするのとでは大きく違う。
割合から言えば、圧倒的に「心理臨床」を学んだ方がいいし、現状では学部のカリキュラムにそれが少なすぎる。実験心理学を学ぶエネルギーを、少しでも多く心理臨床に傾けたほうがいい。それほど、心理臨床というものは難しいものだし、もっともっと時間をかけて学ぶべきものだと思う。
実は、現状において公認心理師のカリキュラムでは、学部課程のほとんどは実験心理学が中心なのである。
学部課程で設定されている科目は、ほとんどが従来の心理学部そのままで、実験心理学中心のカリキュラムになっている。
学部課程で設けられている科目は次の通りである。
実験心理学と臨床心理学は、理学部と工学部くらい違う。いや、もっと違う。
おそらく公認心理師が想定している専門性を考えれば、必要なのは圧倒的に臨床心理学である。
それなのに、「科学者実践家モデル」を採用しているという大義名分の名のもとに、実験心理学優位のカリキュラムがまかり通ってしまっているのである。
そこにきて、今回の試験である。その内容の多くが「実験心理学」からの出題であった。
それもそのはず、公認心理師の国家試験の問題も「実験心理学」がかなりの割合であり、それを踏襲したのだから、当然である。
実は、大学院課程ではむしろ臨床寄りの科目がほとんどになるので、その範囲を避けていると考えれば(たぶん避けていた気がする)、なおさら実験心理学の割合は大きかっただろう。
果たしてこのようなペーパー試験を課すことで、実習にふさわしい学生を選別することができるのか。
そして、そもそも、実習にふさわしい学生を選別する必要があるのか。
そのような妥当性の問題点に加えて、通信制大学独自の問題もある。
通信制大学には、さまざまな土地に住む人が在籍している。ところが今回の試験は、東京会場のみの実施であった。しかも、基本的に別日への振り替えや追試もない。
運営側の立ち場としては、それは当然にように思えるが、学生の立場になればたまったものではない。
今回の試験会場では、空席が目立った。おそらく、場所や日程の問題、もしくは健康上の問題により、試験を受けられなかったのだろう。
また、会場には大きなスーツケースを持ちこんでいる学生もいた。前日から東京に来ていた地方の学生だろう。
通信制大学は、学生への機会をなるべく平等にすべきである。難しい面はあるかもしれないが、極力場所や日程において、一部の学生に不利な状況は作るべきではない。
学生達はこのような試験があると知って入学してきたのではない。急に決まった試験である。
そういった意味でも、多くの学生にとって非常な無理を強いる試験だったことは間違いない。
もう一つ。今回の試験の案内は、1月29日付で郵送されている。実際に届いたのはその数日後である。そこで初めて、試験日と出題範囲が明らかになったのだ。
それから試験までは、ひと月もなかった。厳密には、試験日は「2月の土日祝日」とだけは数か月前に知らされていたが、それ以外の情報はなかった。
日程と出題範囲は、時間の捻出が難しく、遠出や宿泊の必要もある社会人学生にとっては、なるべく早く知りたい情報だったはずである。せめて、日程と出題範囲だけでも、もう少し前に知らせることはできなかったか。
実習の申し込みの締め切りが12月中旬だったから、その後に最終的な日程等を詰めたのかもしれないが、もっと前に決めておける内容だろうし、もう少し早く案内できたのではないか。
ちなみに、試験範囲というのも、「心理実習に必要な心理学ならびに臨床心理学の基礎知識に関する内容」「過去の公認心理師試験問題より、心理学一般ならびに臨床心理学の基礎知識が修得されていることを確認する内容」というものであり、端的に言って漠然としている。
まあ、公認心理師の過去問を勉強しておけば良いということはわかるが、ずいぶんと広すぎる。僕はこの段階である程度は諦めた。
もちろん、これまでに学んできたことが活かせないわけではないが、授業で勉強した内容と、資格試験の勉強とは、全く違う。
繰り返しになるが、資格試験の勉強は、その範囲を見極め、過去問にどれだけ取り組めたかが大切である。
授業などで広く学んでいるようでも、資格試験の範囲として漏れているものはある。
また、深く学んでいればそれだけ、判断に迷うようなことも増えていく。
だからこそ、過去問題で「範囲」とその資格試験の中での「正解」を捉えていく過程が必要になるのだ。
僕の場合は、ほとんど勉強する余裕はなかったので、試験範囲の全体をパラパラと見直すくらいしかできなかった。
実際に受けてみると、「せめてこういうのは出題しないとか、この部分から出すとか、そのあたりがあったら違ったな」とは思った。
前回やったんだから、過去問くらいくれてもいいじゃんとも思った。それで範囲や難易度しぼれるじゃん、と。
一方で、しっかり対策されていた方々からは「思っていたより簡単だった」「いじわるな問題が出なかった」という声があったので、実際の試験よりはだいぶ難易度を下げていたのだろう。
ただ、やっぱり思うのが、この試験に「妥当性」はあっただろうかということである。「妥当性」とは、その試験が、測りたい力を測れているかということである。
例えば、「明るさ」を測るのに、ルクスを計測したり、物の見え方を確かめたりするが、それが「明るさ」を測るのにより適している方法が、「妥当性」が高いと言える。
この試験は体重計で身長を測っているようであった。既存の知識で解きながらも、「これが実習と何の関係があるんだろう」と思った。全てが全く関係ないとは思わないけれど、少なくとも「トラブルを招かないか測る」試験としては妥当性は低い試験であった。
と思っていたら、ちゃんと試験の前後にそのあたりの事情が垣間見える場面があった。
科目修了試験はもちろん、スクーリングでさえ現れない学部長(本学では基本的にスクーリングは非常勤が受け持つことが多い)が現れ、わざわざ「この試験の意義」「実習はとても大変なものだ」ということを語られたのだ。
また、試験後には、違う方(この方も学部の教員らしい)が、わざわざ時間を取って、「大学院試験も厳しい」「本学の大学院入試では15人受けて2人しか受かっていない」「私の研究室でも半数が実習を受けない」「実習先を見つけるのも大変になっている」と語ってくださった。
何の時間かと思ったが、これらの物言いから、この試験の本当の目的が透けて見える。
一番は、「実習に行かせたくない」のだ。
繰り返しになるが、実習は授業科目である。基本的には希望すればそれを受けられるようにするのが、カリキュラムの在り方である。そうでなければ、入学前に明示すべきである。
だが、この実習を手配するのは、とても大変なことである。事前・事後指導も含め、大変な労力もかかる。ましてや、実習先でトラブルがあったとなれば、運営陣もおだやかではない。
(ちなみに、某女子大学では、実習の手配を個人ですることになっているらしい。実質、個人で公認心理師の実習の手配をするのは、教育実習の手配を個人で手配するのと比べても桁違いに大変である。悪質だと言わざるを得ない。)
資格課程というのは、教育だろうが医療福祉だろうが、希望すれば課程を履修することができるようにすべきである。それと、資格取得後の専門家として働くこととは別問題である。個々の職業適性を測る専門性は大学にはないし、履修を保障するべきである。
だが、本学はそれを裏切った。先の話を聞けば、この態度は通学制においても同じなのかもしれない。あの手この手を使って、実習に行く学生を減らそうとしているのではないか。
もし、本当に実習を大事にするのであれば、先に述べたように、事前指導を充実させるなり、せめて妥当な試験にするなり、方法はあったはずだ。しかし、そのような意思は感じられなかった。
さらに輪をかけて残念だったのが、試験問題の手抜き加減だ。
まず、誤字がいくつかあった。おそらく既存の問題を手打ちで打ち直したのだろう。明らかな変換ミスがいくつかあった。
また、レイアウトミスで、選択肢が次の問題に隣接してしまっていた。(この点は試験開始後に注意喚起があった)
そして、設問によって「正しいもの」を選ぶこともあれば、「誤り」を選ぶものもあったが、その場合の「誤り」にアンダーラインがなかった。そんなの注意深く読めという話だが、これは本来測りたい力とは関係ない部分なので、一般的にはアンダーラインが引かれるし、元の試験でももちろん引かれている。この「正しいもの」と「誤り」のどちらかがわずかなら良いのだが、見事に入り乱れていた。
また、解答には「1つ選べ」と「2つ選べ」があり、これもまた、元の試験では「2つ」にアンダーラインがあるのだが、どちらにもなかった。これも先の理由により、あってしかるべき配慮である。
しかも、「1つ選べ」の場合も「2つ選べ」の場合も解答欄が一か所というわかりにくさで、「2つ選べ」の場合は狭い解答欄に2つの記号を入れるという不自然さであった。
誤字にしても、アンダーラインにしても、解答欄にしても、これらの配慮がなければならないわけではない(誤字とレイアウトは、ちょっと見直してくれれば直せると思ったけれど)。しかし、これらの配慮がないことからは、この試験がいかに大切にされていないかがうかがえるのだ。
僕のように、都内に住んでいて、勉強も大してしておらず、今回無理ならもう一年在籍かなあ、などとのんきに構えられるものは良い。
だが、もっと真剣に資格と向き合っていて、それ以外の仕事や病気や人間関係にも向き合っていて、地方からわざわざこの日に都合をつけて赴いた学生に対して、先のような物言いと、こんな試験を出して恥ずかしくないのかと思う。
試験というのは、その信頼性・妥当性を確かなものにするのはとても難しいものである。
その分野の専門性と、試験を作る上での技術もまた別に必要になる。
そのような視点で、各種試験を眺めてみると、おもしろいこともある。
一方で、作問側としては、そこにいろんなものが見えてしまうのも確かなので、緊張するものでもある。
でも、そういった声があるからこそ、より良い試験になっていくので、試験の在り方を評価することは、とても大切だとも思うのである。