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【連載】「こころの処方箋」を読む生活(pp.74-85)

誰かが言ってた。人は死後、それまでの人生で行った場所にしか行けないのだという。それはそうだろうという気もしたが、そうか、人は死後、「見たことのない場所」には行けないのか。

新しい出会いや、新しい環境に出会うと、自分の見てきたものを他人は見てきていないし、他人の見てきたものを自分は見てきていないことを思わせる。

死ぬということは、そのような「見る」という機会を失うということなのだろう。死後は、新しいものを見るのではなく、これまで見てきたものをなぞるのか。もしくは、新しい光景がそこにあっても、それを「見る」ことができないのかもしれない。

これは、生きているうちも同じなのかもしれない。生きている今も、この今の瞬間までに見たものから逃れることは難しい。これまで見ていなかったものを見ることは難しい。だから、我々はややもすると、自分がこれまで見てきたものから脱することができず、目の前の新しい光景を認識することは難しいのかもしれない。

これはたぶん、大人だから、子どもだからということではないような気がする。子どもには子どもの、大人には大人の、見えない部分はある。目の前にあるのに、見えないのだ。

どうすれば、目の前を「見る」ことができるのだろうか。

一つには、目の前の光景が、これまでの「過去」ではなく、「今」であることを自覚することかもしれない。これまで見てきたものと同じものではなく、違ったものなのだということを自覚することなのかもしれない。

長く同じ仕事をしてくると、新しい出来事も、それまでの経験に当てはめて処理しようとする。これは、効率的かつ適切に対処する上で有効な方策である。

コンビニの店員が、手荷物を持たない客を前に、その必要の有無を確認する前にビニール袋を準備しはじめるように。財布を用意しようとせずにスマートフォンを触っている客を前に、バーコード決済の準備をしはじめるように。

それまでの経験値から、最も効率的かつ適切な対処を導き、「先んじて」動き始める。言い換えれば、過去の事例に当てはめる。確定的ではないものから、未来を予測する。そうすることで、効率を上げることを図る。

しかしそれは、時として「早とちり」になる。これはおうおうにしてあることであるが、それでも先んじようとする心性がある。

このことを考えると、目の前の光景に対しても、「早とちり」しないようにと心がけることが、目の前の光景を「見る」ことにつながるかもしれない。

目の前の光景を瞬時に判断するのではなく、ちょっと様子をみてみる。

あたかも映画の始まりだけを見て、観るのをやめてしまうかのようなことをせず、ちょっと様子をみてみる。

そのためには、この「ちょっと」の余裕が必要だ。この余裕があることが、新しい光景に気づくためには大事な気がする。

えてして、この余裕を失ってしまっているのだ。余裕のある人は、子どもであっても、大人であっても、新しい光景を「見る」ことができる。

「見たことのない場所」に行くためには、この「ちょっと」の余裕を持つことである。

まあ、それができないでいるからこその近視眼である。そして、近眼をこじらせるループが続いていく。

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