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【連載】「こころの処方箋」を読む~14 やりたいことは、まずやってみる

やりたいことがなぜできないのか。河合隼雄はいくつかの場合に分けて書いている。


「~がやってみたい。しかし~」

まずは、「~がやってみたい。しかし~」という場合。

つまり、やりたいことをじゃまする要因がある場合である。河合は、この「しかし」という部分に、人間というものの在り方が現れているという。

特に、他に優先順位の高いものがある場合を述べている。本を読みたいけれど、仕事がある。ゆっくり寝たいけれども、ジムに行かなければならない。その「やりたいこと」以上に「やらなければならないこと」があるものである。

しかし、いっそ「やりたいこと」をやってしまったほうが、効率が良いこともあるという。「やりたいこと」があるうちは、「やらなければならないこと」に身が入らないこともある。


私自身は本当にそれで、「やりたいこと」をやってしまわないと、いつまでもそれが頭の中でふらふらしているので、落ち着かないのだ。結果、肝心の「やらなければならないこと」に至るまで、ものすごく時間がかかってしまう

未だに、「まずはやるべきことをやってから」というようには、心が働かない。理性ではわかっていても、心が「やりたいこと」に向かってしまっている

だからといって「やりたいこと」をスパッとできるわけではなく、「本当はやるべきことをやってからだよな……」とうじうじ考えてしまって、結局どちらも手につかないのである。


「~したいのだが、時間がない」

次に、「~したいのだが、時間がない」という場合。

単純に考えれば、「やらなければならないこと」に加えて「やりたいこと」を始めたら、忙しくて仕方がない。もしくは、そんなことはできないとは考える。

しかし、河合は、「やりたいこと」によって能率が上がり、エネルギーの流れが良くなることもあると言っている。


これは、「やらなければならないこと」が「やりたくないこと」だというときには、よくわかる。

「やりたくないこと」ほど、能率が下がり、エネルギーが消耗し、停滞することはあるまい。

確かに、相対的に、生活している中での「やりたくない、やらなければならないこと」の割合を減らし、「やりたいこと」の割合を増やせれば、案外生活は成り立っていくのかもしれない。


しかし一方で、現代人は忙しい。物理的にあまりにも忙しく、心の動きだけでは論じられない部分もあるだろう。

いくらやりたいことでも、起きてから寝るまで忙しくしている中では、とてもすることは難しいかもしれない。


通信制大学のアピールポイントに、「スキマ時間の活用」という触れ込みがあることがある。

特に、映像コンテンツに力を入れている大学だ。

確かに、一つの動画5分から15分くらいと、まさにスキマ時間で勉強できるということになる。

だが、それはそれでその寸暇を惜しむということが、その人にとって必ずしも良いことなのかとも考える。

ちょっと一息つく時間ぼんやり休む時間を失うことになっていないか。


電車の中でも思う。この時間に「何かをする」の功罪を思う。

私は、体調が良ければ、電車では本を読んで過ごすか、SNSを眺めていることが多い。だが、そこまでして読みたい本を読めたという気持ちの一方で、そのゆとりの時間を消費したことの疲労感もある。

私自身は、この「やりたいこと」によってスキマ時間が消費されないようにセーブすることも必要なんじゃないか、と思っている。


「やりたいことがあるが、もう遅い」

最後に、「やりたいことがあるが、もう遅い」という場合。

昨今では年齢で挑戦を制限するような時代ではなくなってきているけれども、未だにこのように思ってできないでいることがある人もいるだろう。

河合はまた、このようにも言っている。そのように言っている人が「他に何もやらずにぶらぶらしていたり、暇をもて余して他人におせっかいを焼きすぎたりしている」のを見て、一言いいたくもなるという。


「やりたいこと」から年齢制限が撤廃されつつある時代にあって、このようなことが減ってきたのは、もっとも良い影響の一つだろう。

「自分は本当はやりたかったけれどできなかった」という愚痴から、「自分は本当にやりたいことはできなかったけれど」という論調に移り、「だからお前も」という説教に発展することもあった。

それは「余計なお世話」で一蹴できることだが、そういった論調で挑戦を邪魔する人は、今でも絶滅はしていないのだろう。


「やりたいこと」を制限する教師

自戒を込めるが、教師という仕事には、生徒の「やりたいこと」を制限する役どころというのが、どこかしらにある。


教師自身の経験や生徒の環境から考えて、「やりたいことをやるよりも、やるべきことをやれ」「それをやるにはもう遅い」ということを主張することが多い。

例えば、「今は部活動に力を入れるよりも、赤点を取らないようにこの科目だけは勉強しなければならない」とか、「模試の対策も大事だけれど、来週の大会に向けて練習に参加することも大事ではないか」と説諭する。

あるいは、「今からこの大学を目指すのは難しいが、この大学であれば可能性はあるから、こちらの対策に力を入れないか」とか、「これから発表会に出るのは難しいが、裏方で参加するのはどうだ」とか説得する。


杓子定規に「やりたいこと」を優先することは、教師の心情としてはなかなか難しい。

赤点を取って留年してでも、部活動に力を入れたほうがいいかもしれない。大会がどうなってもいいから、模試の対策に力を入れたほうがいいかもしれない。

たとえ合格できなくても、志望の大学を目指すことがその後の人生に良い影響を与えるかもしれない。誰に迷惑をかけようが無理やりにでも発表会に出ることが、当人のためになることもあるかもしれない。


しかし、基本的には教師の経験と現実の状況によって、教師は本人に伝える言葉を選ぶ。

部活動よりも、卒業の方が大事だ。模試の対策よりも、大会の方が大事だ。そんな価値観が優位に立つ場面は多いだろう。

今の段階からその大学に合格することは不可能である。今の段階から発表会に参加されたら、他の参加者にも迷惑をかける。そんな現実を踏まえなければならない場面もあるだろう。


ほかにも、保護者の事情や、学校の事情、外部団体の事情、自治体の事情など、多くのステークホルダーによって学校は成り立っている。だからこそ大きな挑戦ができるし、多くの機会が設けられている。

直接的に関係することが多いのが、保護者の意向だ。保護者としては勉強を頑張ってもらいたい。保護者としては部活動に集中してもらいたい。そういった思いを踏まえる必要がある。

それらとの調整を図りながら、生徒の「やりたいこと」と向き合うのが、教師の役割なのである。


そうした結果として、生徒の「やりたいこと」を制限する役どころになることが多いのだと思う。

そうした制限の背後に、「大人の事情」があることは、なかなか伝えることが難しい。教師自身では応援したくとも、できないこともある。

そうした中で、生徒と相談しながら、生徒に納得してもらうなり、妥協案を見出すなりをすることが、教師の仕事なのである。


場合によっては、上から押さえつけるようなことになってしまうことも、単純には批判できないところがある。

保護者に事情がある場合。他の生徒にとって不利益が生じる場合。法に触れる場合。対外的な事情で不可能である場合。

いずれの場合であっても、本人に伝えられない場合や、理解させることが難しい場合も多い。その場合は、上から押さえつけるようなことになってしまうこともある。

その場合、教師は悪者になるしかないのである。上から押さえつけるようなことはしたくなくとも、そうせざるをえない場合は、多々あるのである。


一方で、教師は基本的には生徒の「やりたいこと」を応援したいという姿勢はあるものである。

諸般の事情で生徒の「やりたいこと」を制限することは多々あるだろうが、基本的には「やりたいこと」を応援したい。

それはたぶん、保護者にとっても同じだろう。

だから、このような教師や保護者の事情を踏まえつつ、「やりたいこと」をやるために工夫するという手もある。

大人以上に、子どもは「やりたいこと」をするときに制限があることがあるのは仕方がない。それでもその制限を振り払うには、それ相応の工夫と知恵が必要なのである。



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