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言葉を綴る

フルタイムの仕事から解放され、四日が経った。解放感も不安もなく、どこかマイペースな毎日を送っている。

今更収入源がなくなったことや、これからの仕事がどうなるのかなんてことを不安になるような精神構造はしておらず、かといって希望に満ち溢れて日々を邁進するような若さもとうに失われている。

3月下旬には演奏会や映画など、それなりに刺激的な出来事はあり、それらを綴ろうという意欲が空回りしたまま現在に至る。

毎日は進んでいる。それも、着実とは言い難いものの、それなりには進んでおり、まさにこれぞ現実といった複雑怪奇なものになっている。


やるべきこともやりたいこともある一方で、身体も心もどうにもそこに向かっていかない。かといって、全く向き合えていないわけでもない。

かつてはこれをうつ病の症状のせいにして片付けていたところもあったが、それを心から信奉できるほどの幼さも捨て去ってしまった。

現実とはこのように単純には運ばないもので、すんなりと理解できるようなものではないのである。


週末に来客を予定しているので、大掃除に励んでいる。住環境の整備という点では、めざましい進捗を遂げている。

黒ずんだ壁は白く清々しく、ほこりはまとまり消え去った。モノが捨てられ、空間が生まれ、気を散らすものが著しく減少している。

一方で、コワーキングオフィスも契約し、仕事場も生まれた。

事を成すには最高の場が出来つつある。


ここ数日言葉を失っていたのはなぜなのか。それはある種の過渡期なのか。

僕にとって表現が生まれるのを待つ時間はとても大事なものである。それが生まれる準備が整うまでは、待つ。無理に生み出さない。

一方で、無理やりにでも生み出しているうちに成り立つものも多い。

そのバランスが大事なのであるが、ちょくちょくそのバランスを崩す。そうすると、一気に書かない時間が過ぎるのである。

これはあまり心地よい状態ではなく、生きているうちに、こうならないようになっていきたいと願っていることの一つである。

それは医療の力を借りるのでも、経験則に従うのでも、あらゆる不確実性の中でもがきながら、少しでも未然に防ぎ、少しでも早期解決を図ることを目指すものである。


今また言葉を紡いだことを歓迎しよう。

ここに生まれる言葉は過去にも未来にも捕らわれることのないようなものでありたい。

その捕縛から逃れるために、僕はまた、言葉を綴っていこう。

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