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未来の兆しを感じてみる、言葉にしてみる

未来はどのようになるのかは分からない。
だからといって、未来について考える意味はないのだろうか。
未来は自分にはどうにも変えられない、アンタッチャブルなものなのだろうか。
確かに、そういう見方もできる。
我々は、そもそも歴史に規定されているし、日々、時代の要請に応えながら選択している。
大恐慌も戦争も起きる時には起きてきたし、大衆の流れをコントロールすることがいかに難しいかということを学んできた。
しかし、だからといって未来について思いをめぐらすことが、全くの徒労に終わるということでもないのではないだろうか。
現状、色んな人と接しても、未来のことに時間を割く習慣はそんなに根付いていないように思える。
人生の中に未来を考える時代があるとすれば、必然的にやってくる受験であったり、社会人になるタイミングくらいであろうか。
それ以外の場合は、特にあえて未来について考える必要性も感じておらず、切り口も見つからないようである。
しかし、多くの人が未来を選択する経験をしたことがあるのは事実である。
なぜ、それを常日頃から行わないのだろう。
その必要性は本当にないのだろうか。
未来は遠い世界の話で、どこかの誰かが決めたシナリオを私たちは、ただ歩まされているだけなのだろうか。


そうではなく、未来への眼差しを変えるだけで、捉え方は変わってくる。
未来への切り口は日常に見出すことは可能である。
それは、ふとした瞬間に自分が感じ取る主観的な何かで良い。
たとえば、町の活気とか珍しいポスターだとか、記事の隅にひっそりと佇むニュース記事。
こういったものに、普段と違う気配を感じ取る感性こそが重要になる。
この主観性の活用こそが、未来へのアクセスをぐっと高めるのだ。
そうはいっても、「その未来が当たるのか?」と疑問に思えてくるかもしれない。
もちろん、当たらないこともあるだろう。
しかし、当たることもあるはずだ。
大切なのは、的中率ではなく、未来に認知リソースを割いていくことである。
多くの人が、過去を悔やんだり、現在のことで頭がいっぱいになる。
過去を生かし、未来を見据えた上で、現在為すべきことを決める発想に転換するのだ。
これをやるだけで、人生はずいぶん明るくなるだろう。














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