歴史と経済37〜もったいない〜

先日、ドイツの大学のセミナーを受ける機会があった。
ドイツの学生や先生が流暢に英語を話す。
時々、身内ではドイツ語でやりとりしている。
両言語の違いは明らかだ。
巧に話し分けていることを感じた。

そのセミナーでは、日本の大学と同じように聞き応えのある発表がなされた。

しかし、残念なことに私はそのセミナーの半分程しか理解できなかったことを実感した。

何という機会損失。

もし、これが日本語のセミナーならば、釘付けになるような内容だったであろう。
ドイツ人が開催するセミナーともなれば、そこには日本人にはない視点や考え方が自然と組み込まれることとなる。
それが、また勉強になる。

もし、私に英語で自由闊達に議論できる能力があるならば、私の視野は間違いなく拡大することになるだろう。

ただ、英語ができないというだけで、どれだけチャンスを失うことになるのか。

それが、もったいないと感じる。

これだけ流暢に英語を話す人々がいて、自分がろくに話せず、聞くことができないのは悔しい。

一念発起という言葉があるが、そんな経験をして吹っ切れることが重要なのではないか。

日本は本当に便利な国だ。
世界最高峰の技術を日本語で知ることができる。
ニュースも同様だ。
世界の便利な商品も手に入る。

しかし、英語でダイレクトに知った方が早いし、正確だろう。
それによく考えると、世界で起きていることが選択されて、日本に入ってきているという点は見過ごせない。
当然、日本に入る際に漏れ落ちている情報もあるはずだ。
その情報が私にとって有用でないとは限らない。

「テクニック」としてただできるようになりたいでは、なかなか行動に移せない。
ガンと頭を殴られたような、どうしようもない不甲斐なさを感じる必要がある。
自分に失望し、一度は情けないと思わないといけない。
今まで何年、英語を勉強してきたと思っている?
今更感を痛感してこそ、スタートできるのだ。

一つのテーマに沿って議論を交わすと、いろんな人の考えがわかって面白い。
その規模が、人種を超えると飛躍的に面白くなるだろう。
そもそも、この社会は誰かの考えが実現した社会だ。
こんなに面白くて、勉強になるものはない。

内なる欲求をこそ大事にしたい。
できるようになりたいし、そうなるしかない。
そこまでやるか、を全部やる。

そうして初めて、世界を知ることができるのかもしれない。
経済も歴史も桁違いの規模で学べることを予見できる。

長期的に見ればこれがスタートであり、今こそ行動を起こすべき日なのである。
そういう意味では衝撃を受けた日が好機となり、挫折を飛躍に変えることができる重要な経験をしたと見ることもできるだろう。

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