⑼補2 停滞する現代世界と大学知性

山本哲士氏へのインタビュー9

ーー修正、ありがとうございました。改めて、山本さんが語られたことを全部読み通して感じたのですが、山本思考は、遡及的な論理なので、わからないことがどうしても出てきてしまいます。通俗では、時間順の進み方が物事を判明させるロジックだと認知しながら認識していくんですが、山本さんは通時性はロジックではない、それはただ再認の仕組みだと言ってます。シニフィエのみが真実だとしている大学人の言説である、そんな言説からは吉本は了解できない、と言ってこられたと思います。大学人の思考のままの人間が、全集の編集をなす能力は最初からない、その現れが傲慢になって第30巻で、著者までをも無視することになり、かつ無断盗用までしでかしている。そこが、この編者や出版社に同調する人たちにわからない。制度権威に依存した判断で、全集への間違い指摘を認めず、山本さんの真実の方が間違いだと、当事者を否定することさえ起きています。
編者が事実を追っているかのような偽装をしながら、自分だけを正当化する枠組の中で自分に都合いいように組み立て、吉本作品もそのようにしか見ていない。作業の道具立てが極めて恣意的でずさんであることが、その後の編者による支離滅裂な人身攻撃対応にはっきり出ています。
つまり、編集で自分が何をしたのか、何をしているのかが自分にわからなくなっている。これは現在の社会状況でもあると思いますが、どうしてこうなっちゃってるんでしょう。
知らされても、どうしてその思い込み固執の次元から脱せないのか。例えば、青版の存在を主張したいなら、「2007年に「心的現象論」名の青版が、印刷所によって作られ一部に配布されたが、作者も出版社もそれを容認しておらず、2008年「心的現象論・本論」として刊行されたものが最初の単行本である。」と記すればいいだけの事実です。
こんな簡単なことを、なぜできないのか、しないのか。
それを、頑なに、拒否し、自分の調べが正しい、山本が始末していないことが問題だ、など吉本本人決定を無視して、タイトルまで消してしまう。俺がやったんだと言いながら、しかし付帯物や構成で山本さんが作ったものをそのまま無断使用している。あとは、ネチネチと人身攻撃。なんでこんなことを、吉本本においてするんだろう、そこには、出版倫理やその良き慣習面を踏みにじる、傲慢な独りよがりの妄執が機能してしまう、社会の権力関係のシフトが起きているのを感じるということです。知を歪める権力作用です。また、事実確認もないまま、全集権威に便乗依存して、山本は間違いだという一部の同調者を生み出していく。それは、私どもが読者としてなした抗議行動を旧態左翼だと還元して非難し、ものがわかったようなそのポーズから、賛同した山本は思想家として死んだ、とか人格判定までするような人がいる。
これらは、吉本作品と関係ないものを引きずり出してきて、「本論」を消していく、吉本否定の挙動であるのに、吉本派だと言っている。何か、そこには鬱屈した不気味なものの動きを感じます。間違いをなおすことをしない、政治家や官僚たちの国会答弁から公の場で顕著になってきて、さらには日大の問題や中古車販売会社のことやら、あちこちでコロナ禍後の異様な変化が、自分の身の回りにも出現してきています。
山本さんは、こうした状況をどう考え、どうしていくことと考えておられるのでしょう?
山本 私は思想家として生まれても自己形成もしていないですから、思想家として「オラは死んじまっただー」なんて死ぬこともできないですが(笑)、もし研究者として否定されたなら、それは容赦しないですね。私は、権威ににはいっさい迎合、服従しませんので、周囲の方々はヒヤヒヤだと思います。でも、屈服したならなし崩しになってしまうんですよ。
言説や構造や産物の次元でなされている作業やワークのことを、人格へ還元するのは、低知性の典型で、相手にするに足らないですね。学生さん以下の知性です。知性がないんではない、低劣なのです。偏差値学力の知性です。制度化された知性です。
これは自分がなにをしているのか、何をしでかしたのか、自分へわからないということは、「対象」それ自体をつかめていないのを意味します。つまり、吉本言説をただ書記記号で押さえているだけで、対象としては何も掴めていないんですよ。だからいじくれるんです。無知というのは、平気でそういうことして、対象をよくしてやったんだ、いい物に作ってやったんだと、傲慢になります。
この件に関しての対応は、順番に進めてはいますが、遡及的にすでに最初から設定してあることです。何をしたならどうなるか、対抗贈与的に想定し、実際その想定したようになっていっていますが、このインタビューを受けて、次に、無断使用を俎上に上げました。最初、指摘はしていますがあまり強調していなかったのも、謝罪修正すれば容認するつもりでいたからです。「本論」としてちゃんと刊行してあれば、無断使用であろうが、質が保持されますから、私はいい気なもんだと感じはすれ、何も起こさなかったと思います。
まず、最初は率直に、私は怒った。怒りの感情は論理的ですが、ひょっとしたらわかるんではないかという期待的な甘えでもあります。S社社長は、知り合いで、しかも色々私を助けてくださった方ですから。
しかし根拠があるから怒る。明らかに、この人たちは何をしているかわかってないなということが、わかってましたので、どう反省するかしないか、修正するかしないか、さらに隠れているものは何かを露出させるために、まずは激しく「対立」を浮上させることで、穴ぼこの存在を浮き出させたことですね。
全集は方向づけられていて、それがもう無意識になってますから、どこへ向けているのか自分たちでわからなくなっていることが第30巻で出現した横暴さです。
全集が、はしがきとしてパンフを盗用したり、あとがきにかえてや付録資料を無断で使ったのは、著者のものだからですが、「本論」構成の単行本体裁をキープすることをしている。なのに、「本論」なる概念名称=タイトルを消して、既刊本、著者を無視して消したのは、この編者の個人主張でしょ。前代未聞のことをしでかした、個人が勝手にたやったことが、明るみに出ましたね。
出版社は、それを知らなかったが、加担している、という不可避の関係がだんだんとあらわになってきて、さらに「そうするしかない」ねじれた状態になっている、何かが別の作用としてあるということでしょ。それは、わからないが、いずれ露出しますよ。
一次資料にあたているかのようなポーズをとってますが、二次資料でしょ、しかも疑いもなく、付帯物の出典との変化も確認せずに。これらは自分が何しているか自覚も認識もない、みつくろいしているだけです。つまり、我々の制作した本に立脚しているんです。「本論」を消してそうしているんですから、無断で、盗みですね。その判定は、司法へ委ねますが。
そんなものが、全集作業として通用するんですか?!真摯な制作姿勢ですか?
盗む意図があったかどうかは知りませんが、無断使用を意図的に実行したことは紛れもない事実です。しかも、出版社は知らなかったというんですから、なんですかねこれ。こそこそと隠れて、自分勝手している。
これだけ言ってわからないんですから、あとは、もう然るべきところへ行くだけになりますが、名誉毀損を含めての損害賠償民事になるかと思います。もう、容赦はしない次元へきました。全て、そのための資料となるように配置して、お答えしています。
彼らは、最初に、私の言動を「言われなき」誹謗中傷として法的手続きに出ると表立って脅してましたが、私には全く効きませんよね、私は事実をただ述べているだけで、全集が間違っているんですから。そうしてくれた方が早かったんですが、何をしでかしたのか、全くわかっていなかったからでしょう。企業体として恥をかき、信用を無くすだけですよ、と話し合いで助言しましたけど、真っ当な仕方だと思っていたようですね。私には、なんの差し障りもないことです。社長は、病気になってしまった。私のせいではない、この編者が起こしたことです。
小さなこちらの権利ですが、小さな明解なものがいちばん力が強いんです。

いくつか、disorientationとなってしまうには、根拠があります。
通時的なものは、実は先取りされたことを、順番に述べているだけで、未決定はその過程で処理されていきます。不測自体はその過程でおきますが、遡及的設定は変わらない。主語認識として概念スキームを持ったままだと、ここは無自覚になるんですが、述語的言語表現では遡及的になっているものが、文末=結末で選択決定されるだけです。
これはつまり、思い込んだことは変わらないこということです。ですから、本性が暴露されるように組んでいくと、当人の自覚なしに当人がボロを出します。ボロをもし出さないとすれば、それが最初から詐欺的、詐取的に意図的に組まれていたということですから、犯罪的決定は逆に簡単に出現させられます。
私への人格攻撃が可能になっている外部的世界に根拠がないわけではありませんから、それは象徴次元に社会的なものを織り込んでいきますと、象徴的闘争が浮き出すんですよ。なのに想像界だけの「不安」でこの編者はやってますから、自分が何をしているのかまったくわかっていない姿を露呈させているんではないですか。
吉本作品をそっちのけで、山本排除の編集制作をしただけだから、全集自体が問題の種を巻いたんです。
確かに、私がいなければ「本論」制作は成り立たないのも、資金調達と内容配置、レイアウト、配分など、全てを私のプロデューシングでなしたからで、経過は、常に著者に報告し確認をとって作ってます。編集作業は高橋輝雄さんがいなければ不可能だったし他の編集者、製作者たちがいてくれたからなせた。青版の問題だってちゃんと処理し、著者本人も認めていない。我々は発売も販売もしていません、一銭たりともとっていない。この全集編者が、いかにも物事を発見したかのように蒸し返しただけです、当事者への確認もなしに。新聞記事だって、裏付けとるでしょ。基本的なことを何もしていないんですよ、これ。
私の作業がこの編者は目に入ったというか感じたんでしょうが、対象自体が見れていないから、吉本=著者否定をなしていることさえ、わからなくなっていきます。妄想、妄念しかはたらかなくなり、その正当化しかできなくなる。編集ワークとして、もう論外ですね。著書自体に誠実ではないですよ、この仕方は。
出版社側は、委託編者の背反行為として対処する以外に、残される道はないといえますが、この編者と心中したなら、とんでもないことがいずれ起きてしまいますよ、と警告しているだけです。他者の組織のことですから、関与すべきことではないですが、案外と何もわかっていない感じがするので、もう少しジタバタが起きるでしょうね。そこも、見当はだいたいついています。
また多数者は、既存の規範スティグマに便乗して、悪辣な対処をするという支配マター依存を遂行するだけですから、自分のことではないので、力優位のものに従属するだけです。自分を守れる利には敏感です。中古車販売の出来事でも、中堅幹部はガラリと態度を一変したでしょ。力がどこへ靡いていくかには、とても敏感なのです。(「靡」は、成章が助辞、助動辞の解析に示した述語作用です。)
こうした状況で、私が貫いているのは、質の優位性の保持だけです。間違いなどに依拠して正当化遂行はなされない、必ず破綻します、そこを私は確信しています。この時、重要なのは本質に立つこと、そしてその社会的偏曲がいかにもたらされているかを客観化し、真正性を貫くことです。それしか道はない。たった一人になろうとも、微動だにしません。倍返しになるのが、賢い人ならすぐわかるんでしょうが、この全集編者はわあわあ自分感情を露出すれば誠実だとまで転倒していく妄念ですから、もう訳がわからなくなって、ただ対象を歪めて自己撞着へ貼り付けていくだけですね。私は闘争して負けませんから、他者には「ほっといてくれ」ということなんですが、そこをわかる知性はないようですね。人を物理的に傷つけない物理力でもって決着した方が、ほんとは誰にもいちばんいい方法なんですが、大人として私はもうできなくなっていますね。K氏がもし生きておられたなら、私は協力を願って多分やったと思います。左翼でも右翼でもない、ただラディカルです。思想的対立ではないですね、真正性の対立ですが、相手の次元が低いですから理性決着はあり得ないからです。脅しではない、犯罪的行為に対しては犯罪的なギリギリの危うさを自分も引き受けるしかなくなるのです。遡及的実践の仕方です。
吉本さんとは、ほんとに、全く関係ないことですね。
私が、この編者や出版社レベルへ、落ちていくことになります。合撃という状態です。実践は、言葉ではなくなります。力の作用です。または、法権力の導入となります。

関係あるのは、「本論」概念を戻せ、だけです。そうしたなら、すぐ手を引きますよ。私の出版刊行社としての著者への責務ですから。思想的、理論的におとしめるものを容認はできない。
世界最高峰の思想が、低次元の大卒知性へ貶められたことを、私は受け入れることはできない、その「自己技術」はあります。ただ、相手が他者性のない無能であればあるほど長引く不毛ですね。私へ対話できないで、私を排斥したのに、遠吠えして中傷しているんですから。

構造的なことを説明しますね。
ネオリベラルな社会状態にあると言えます。これは、desirabilityと仕事につくemployabilityとの連結を、驚くべきことにdisorientationとしてなす、それが自由だとされていることです。もう、労働力を売り渡して拘束されて給与をもらう、という状態ではなく、一人として、その全存在をかけて仕事をもらうという状態になります。つまり、プロフェッショナルに任されるんですよ。ところが、能力があればいいですよ、ない場合はとんでもないことに仕事次元は落とされます。規範は外在化され疎外されて、内面化はされていませんから、「俺だけができる」という妄念が付着してそこに囚われます、そうでないと雇用可能性の持続ができなくなるからです。雇用側は、そこを巧みに活用することが要されます。なのに依存してしまうから、今回のような問題が発生する。
このdesirabilityとは、なんであるかが個性になるんですが、欲望可能性は、私が明らかにしたように遡及的に国家資本へ構造化されたものの個人化なのです。共同幻想と個人幻想とが反転して一体化されたところに働いている「他者の欲望」です。話し方とかファッションとか、振る舞い方とか個人の行為様態ですが、前もって国家資本配置されているんです。ここへの自覚をもっている人はほとんどいないですね、それほど個人化されていますから、大文字他者が無意識に個人へ領有されているんですよ、それが、自分のなしたまちがいや誤りを指摘された時、権威ぶって傲慢な態度として出現してきます。
それでは、この国家資本とは何か、主語制言語様式の欲望構造ですね。ですから、「俺が」「俺が」と主張されます。支離滅裂になるのは、対象がプチaという「何か」、自分へ全く自覚されていない認識もされていないものによって侵蝕されているからです。その「プチ対象a」は、個人化において抱えているものですから、人によって違います。生い立ちや経歴・履歴や経験上の出来事とか、いろんなものによって形作られている「何か」です。そして、このネオリベラルな状態は、プライベートなものとパブリックなものを曖昧に曇らせていきます。私が配慮して名を出さないことを、平気で露出させたんでしょ、この編者は? それが正しいことだ誠実なことだ、本当のことをしている証しの表明だと思い込んじゃうのです。別に発見でもなんでもないですね。書いてあることですから。
ただ、この編者においてわかることは、著者をナメている、馬鹿にしている、そして大学アカデミズム制度権威に依拠している、ということは露呈していますね。中級出版社コンプレックスも丸出しですね。要するに、落下したエリートで、それが心的屈折になってます。異様でしょ、現れ方が、コミュニケーション取れていませんね、開けないんですよ、開くと自分の愚かさが露呈してしまうのを知っているから閉じるしかない。
ーー病的ですね。無能な奴ほど威張り腐る、どこにでも起きている現象ですね。
山本 ええ、それが社会病です。個人化されていますが、構造的な社会病で、もっと言えば全体主義は、その不能さに、全能性を外部構造保証して被せてきますから、偉そうな態度になって出てきます。自分自身には何もない、ただの小人なんですが、私だって、こういう輩には、「偉そう」に振る舞いますのも、社会規定制からそうせざるを得なくなるからです。意味ないことですが、作用するんですよ。
しかし、私が戦っているのは、この個人=人格ではなく、国家資本であり、商品経済構造であり、その権力諸関係の社会規範空間です。その典型が、ここに出てきたから、徹底しています。少なくとも、私は自分で考える人ですので、自分が自分へ、他者へ、何をしているかはわかっています。自分の物事の限界も含めてです。この編者に、限界自覚はないでしょ、全能化しないとバランスが取れないんですよ。大学人に多い性向で、そのレベルから出ていない。吉本さんは、そんな次元つきぬけているのに、全然追いついていないですね。自分と構造との関係を配置換えできる自己技術力がないのは、シニフィアンが全く見えていないからです。世間では、これは馬鹿にバカだと言ってもわからない莫迦と言いますが、「まろく」論理になっているんですよ。
ーー社会的に、しかしそれは機能してしまいますね。どうしてですか?
山本 想像的なものが象徴界へ介入しているからですが、それを可能にしているのは既存の制度権威です。大学総長とか、うちの小出版より大きい中堅出版社だとか、「全集」という一般的権威とか、自分ではないものへの依拠です。吉本さんがいちばん戦ってきたものでしょ。私は、イリイチと吉本さんから、制度権威への戦い方、態度を学びましたが、思想態度としてではなく自分の政治的自律性としてです、その自己技術は自分でいろんなものにぶつかりながら磨き上げてきましたが、大事なポイントは、自分の既存利権を守ろうとしたなら機能しなくなります。捨ててしまう覚悟を持っていないと対抗できないパワー関係があります。権力所有者なんていない、周りが権力関係でもって支えているだけです。社会空間は、この制度権威とそれを支える権力諸関係によって、規範正当性の形式を保持していきます。しかし、壊れるときは脆いです。あっという間に、その虚構は崩壊します。でも同時にしぶといですね。それは常に欠如を埋めていこうと動いているからです。データ社会になって、データと規範とがごちゃごちゃになりましたから、「書かれない」ことをやめられなくなるのです。書くことをやめないんではない。ここへの自覚はまったくなくなります。社会空間は穴ぼこだらけです。何でも機能していけるかのようになっていますが、肝心なことが禁止されています。この禁止が見えない状態なほど対象aが氾濫しているからです。すると、思想的言明の機能は貶められます。私が吉本思想を理論化せねばならないと主張し実行してきたのは、理論言説化されないと思想の穴ぼこが力を持っていくのではなく風化してしまうんですよ。「本論」が消されたのも、その一つです。アカデミズム規準からすると、吉本言説は容認されないのも、言説構造がまったく違うからで、そこを全集やってる人たちは何にもわかってないと思います。編集者の複数体制作らない限り、恣意的なものは出鱈目状態へと落下していきますよ。吉本思想を舐めてますね、私から見ていると。心的現象論・本論が世界第一級の言説であることなど、まったくわかってないですよ、だからいじくれる、ひどいですね。出版社の社長は読んでもいないんじゃないですか、だから平気で出鱈目編集者を処分できない。私がお付き合いした新曜社社長の堀江さんも、エディタースクール社長の吉田さんも、ちゃんと読んだ方です、ですから私のような若造を理解して支えてくれた。堀江さんは原書も読めましたからね。吉田さんは思想を理解されておられた。ほんとに出版社の質の落下はひどい、その現れです。
私が自分で出版社を作り、学者たちにもできるんだからやってくれと言っているのは、もう出版社依存で学術の産出はほんとにできなくなってきているからです。どんどん大学人次元へと落下しています。かつて出版は大学より知性が高かった。今や大学知より低い。日本だけではないですが、日本ほど悲惨ではないですね欧米もラテンアメリカも。
だって、このインタビューだって、活字時代には公にはされ得なかったし、本にできるような質ではないものができてしまう。
ーーでも、山本さんは、ネット上でも質を落としていないですね。
山本 ええ、できる限り。若い人たちに使い方を教えられて、彼らから妥協なくやり続けろと言われてます。わかってるんでしょうね、軽薄さで物事は進むようで進んでいかないんだと。でも多数は、そうではないようですね。否定すれば優れているんだというマルクス主義の理論効果のままにとどまっているだけでない、もっと近代思考的に後退しているように思います。ラカンを専門的にやっている若い人たちでさえ、私などより勉強していながら、しかし近代的実体にその思考を戻して解説していくんですから、ひどい状態です。大学人ー大学教師たちの思考低下はひどい。私が学生時代に、学問的な批判をもって吊し上げた時の大学教師たちより、質が落ちている。若者への損害は膨大なものになっていると思いますが、そこを突き抜けていく若者たちがいるのも事実です。でも、そこへの知の地盤がない。大学知が、無自覚的に破壊させているからです。(つづく)