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わたしの庭/美帆



ここでは私は庭にばかりいる。
飲み物と軽食はいつでも運んできてもらえるし、本もスピーカーもある。
鳥やリスにパン屑をあげるのもいい。
愛犬と湖畔をゆっくり散歩するのも飽きない。
何より風がある。
花のにおい、樹々のざわめき。

時おり日本のことを思い出すが。それは一瞬のことだ。

陽射しはまだ高い。
温室に据えたあたらしいキャンバスにはおとといから向かっており、
アイボリーを基調にして色を重ねている。

ここに咲き誇るマグノリアの花々。
重厚さと可憐さ、その香りとが一体になったイメージを画面に写しとっていく。


湖畔の家に飾る作品を二〇点ほど、と声をかけられた時は驚いた。
多い分にはいくら描いてもらっても構わないのですが、とそのマダムは躊躇わずに言った。

去年の夏に訪れたギリシャの島でのそれはできごとだった。


美帆はあたらしい生活をこれからつくっていこうとしていた。
画家として、女性として、いつのまにか自分に課していた窮屈なしがらみを脱ぎ去り、
あたらしいマンションでゆっくり絵を描きながら暮らすつもりだった。


それが。

新生活の前にと旅行した先のレストランでマダムと隣のテーブルになった。
美帆がメニュー選びに悩んでいると、マダムは優雅に、でもきっぱりとした口調でおすすめの魚料理とワインを選んでくれた。

美帆は旅の醍醐味と心愉しい気持ちでそれを受け容れ、
そこから二人は少し会話を交わした。

美帆は日本から来たこと、東京の近くに住んでいること、
画家であること、着物が好きなことなどを話した。

マダムは自分については多くを語らなかったが
身のこなしとドレスとジュエリーの見事な着こなし、それに話ぶりから
身分のきちんとした、裕福な暮らしをしている人物であることが伝わってきた。


美帆の絵の写真はないのか、と聞かれたので
スマートフォンの画面で数点見せると、
マダムは「あなたはいつまでギリシャにいられるのか?」
「イタリアに来て滞在制作をするつもりはないか」と
持ちかけてきたのだった。



ビザや滞在中の待遇、絵の値段、それらが流れるように提示される。
日本の画廊が示す値段とは桁が違ったし、願ってもないような待遇だった。
何かの詐欺だったらどうしようか、と思わないでもなかったが
心ははじめから決まっていた。

マダムにどこか、豪胆な祖母と同じ香りを感じたからかもしれない。


一度帰国して必要な手筈を整えた。
いちばん大変だったのは愛犬をイタリアに同行させるためのあれこれで、
マダムの秘書の指示に従って東奔西走しているうちに、
気付けば二週間前に美帆はこの庭にたどり着いていた。


マダムはその間二度、姿を見せた。
美帆の描きかけの絵を見るとしずかに頷いただけで何も言わなかったが
満足している肚のうちが不思議と美帆には伝わってきた。

それで美帆は安心して自分のペースで制作に打ち込むようになった。


風が吹く。

たった二週間しかここに滞在していないことが信じられないくらいに
自分でも水が合うことがわかる。


いつも深く呼吸することができたし、心と身体のすみずみまで、どこにも窮屈さがない。
夜はぐっすりと朝まで目覚めることなく眠れた。
いつも気分が良かった。
気が向くと好きなだけピアノを弾いた。

シェフは美帆が美食だと分かるとよろこび、せっせと料理を作ってくれた。
それらに合わせる、一生かけても飲みきれないワインセラーいっぱいのワインも
いかにも気持ちよく美帆の細胞をふるふると満たしていく。


小さくピアノ曲をかける。
それは鳥の囀り、庭師が使うハサミの音と合わさり心地よく耳に落ちる。

愛犬はソファで微睡んでいる。


筆をとる。
キャンバスから一瞬、マグノリアが香った。
日本の春を思い出す。
母、祖母、男たち。

でもそれは、前世の記憶みたいだった。

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