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くだらない人間と免罪符のように唱える

詩情が迸る時はいつもきまってそれを留めておく術がない。

不定形でふわふわと漂うそれらを昇華するべくいざ机に向かって腰を据える頃には、詩情もその残滓もそれを形にするモチベーションすらもとうに雲散霧消してしまっている。そうして消えた名作遺作の、かつて存在すらしえなかった幽霊が、夜な夜な私の枕元に立つ。あるいは私の口惜しさが枕元の幽霊とそれに睨まれる私という構図に落とし込まれている。

こういう悔しさの要因は、(もちろん単に私の把持能力が虚弱な事もあるだろうが)自分はもっと素晴らしい人間のはずだ、素晴らしい作家のはずだという身分不相応な自惚れなのだろう。もっと素晴らしい作品が作れるはずだ。今回は本調子じゃなかっただけ。今回は調子が悪かっただけ、を繰り返していつしかそれが本調子になるとも知らずにいい気なものだ。


創作に限った話ではなく、私は自分に過度な期待をしすぎる。それは他人の眼にはしばしば自分に厳しい姿勢だと映るらしいけれど、きっとそうではない。私は自分の事を実際の自分よりも過大に評価しているだけだ。自分はもっと偉大な作家で、もっと優秀な学生で、もっとちゃんとした人間なんだと、あるいはそうなれるのだと。

だから、その評価通りに、理想通りにできない自分が許せないのだ。それが自己肯定感の低さに帰着して自分を苦しめている。

もっとがんばればいいだけの話だと思う反面、既に頑張っているという自己評価を下すことは許されるだろうか。

自分に課すハードルを下げられたら、できない自分を認められたら、もっと生きやすいのだろうが、それがなかなか難しい。

と、いう話を、いつか人にしたことがある。
確か私の自己肯定感の低さを指摘してくれた時だ。(彼女は他人や自己の分析が非常にうまい)狭い歩道を前後に並んで歩いていたので、顔は良く見えなかったけれど、声色から察するに困らせてしまっていたと思う。その時に限らず私はいつも彼女を困らせているけれど。

ぜんぶをどうでもよく思えたら楽なのかな。

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