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Yoshilog Live 43 日本の近現代史(9)「維新と開化」

次回のYoshilog Live では、だいぶ間が開きましたが、日本の近現代史シリーズ(9)を行います。これまでの日本の近現代史シリーズでは時間軸を無視して、あちこちに飛んでいましたが、しばらくは江戸末期から現代に至る時間軸を一通り辿っていこうと思います。但し、その場合でも、世界の同時代史の一部としての「日本の」近現代であり、人類史全体の中の「近現代」として見る視点は変わらないので、遠く離れたトピックも混在し続けると思います。

"江戸のメンタリティが今も残ってる"とか、”江戸時代から何も変わっていない”というようなことはよく言われるし、僕もしょっちゅう言ってますが、もっと厳密に考えれば、こういう表現にはいろんな意味が含まれています。

丸山眞男のいう「である」型思考や、ルース・ベネディクトの発見する「位置」の思想は、江戸から明治に時代が変わることによって全く変わらなかったものの象徴のように見えるし、それは今も「分をわきまえる」、「平社員の分際で」、「女のくせに」、「生意気な若造」というような日常的に耳にすることができる表現の中にも、「長幼の序」や「年功序列」のような消えたと言われても頑強に残っている慣習に根強く残っている。

それはもっと今ふうの表現で言えば、「属性を基にマウントをとる」思考に明瞭に残っている。自分の優位性を属性によって誇示するというのは、位置に依存した優位を主張しているのと同じことだ。自分の位置と他人の位置の「差」を固定することによって、階層を維持しようとする。自分はお前とは「別」のものであると主張する。それによって、社会の秩序と安定を維持され、もっと大事なことに彼らの心が安定する。それが江戸から今にいたるまで連綿と受け継がれているという事実に、”何も変わっていない”の中核にあると思われる。

「維新」とは復古という意味であり、過去へ戻るという意味であるのに、「開化」という新しい時代へ向かう概念が明治には並列している。江戸から過去へ、江戸から未来へと正反対の方向に同時に向かうとはどういうことなのか?しかも、結果として、後ろへも前にも行かず、江戸の「差」「別」の思考様式がそのまま残ったのはどういうことなのか?

それについて考えたく、今回のYoshilog Live を「維新と開化」というテーマにした。


日時:2022年11月6日午後3時〜5時(日本時間)

場所:Zoom(メンバーの方は東京でオフラインの参加も可)

料金:1,000円(メンバーは無料。何もする必要ありません)

 *料金に含まれるもの:当日の参加費、録画、資料。

参加方法:

1. この記事を購入。

2. 決済完了後、この下に出てくるフォームに記入←忘れる人多し。

3. 入室案内をフォームに記入したメールアドレスに受け取る。

*SNS上で好ましくない活動が発見された場合は、参加はお断りします。その場合は、お支払料金は返金しませんので、心当たりのある方は申し込まないことをお勧めします。

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