楽しいことをやっていたら仕事であった

#雑記


「楽しいことをやっていたら仕事であった」

そうありたいと思う自分がいる。

しかし、「楽しいことをやっていたら仕事である」という表現やそう願う自身について別の視点で考えると、(適当な粒度や表現で言語化できないが) 「仕事」というものを「避けたい」のようなネガティブな感情で捉えているようだ。「楽しいこと => 仕事」であることを願うのだから、逆説的に、少なくとも一部の仕事は楽しくないのだろう。

立ち返ると、なるほどたしかに、少なくとも一部の仕事に関しては楽しくないのは自明である。現在、週40時間ちょっとの時間を企業との契約による就労に費やしているわけで、それ以外にも公的な契約を伴わない仕事のようなもの (これは個人スコープの投資に近い活動も含めている) もやっている。それら全てが楽しいわけがない。

一方で、その他の一部の仕事は、これまで生きている中では最も楽しいと断言できるものもある。いつかの日記に書いたが「仕事って楽しいんだ」と思わせてくれたようなレベルではない。おそらく熱中、もしくは熱狂と言っても過言ではないだろう。私の個人史においてこれほど盛り上がっている「仕事」は存在しなかった。



「仕事」とはなんだろうか。この雑記においては、一般的な就労のそれとは他に、金銭的な取引、公的な契約を伴わない活動においても仕事と表した。ようは「私が『仕事』と自覚したもの」である。


最近、職場の雑談会で「生活やお金のために働く必要がなくなったら何をするか」という話題を投げかけた際、その場にいた半分ほどは「それでもソフトウェアエンジニアリングはやる」と述べた。私は全国や世界中でワーケーションを行いたい。(書きながら思い出したがこれについて人生設計を手直ししようと思っていたのだった)


そんな話題について考えているのも、尊敬する先達から紹介してもらったコテンラジオの資本論シリーズやポスト資本主義シリーズを以前聞いての影響がある。

また、今日この雑記を書いているのも、以下の記事が思いのほか楽しいかったからだ。


「パーパス」と横文字にすることで手触りが良くなり外見が良くなったように思えるが、逆に掴み所がなくなり自分とは別の何かになってしまうように感じる。余計に難しくなるのだ。ただでさえクリティカルで難しいものなのに。

パーパスは「生まれた目的」だと考える。個人レベルでいうと「人生の目的」とも言えるし、「死ぬまでに達成したいこと」と言い換えることもできる。


「生きるために仕事で金銭を稼がなければならない」は目的ではない。生きるための手段だ。手段だからと言う理由で切り捨てられるようなものでもないし、現代において極めて重要であることは明らかだが。

だが、その手段が完全に不要となったとき、私はどうするのだろう。今のところ、即座に行動できるとは思うが、その行動方針が定まっているとは自信を持って思えない。私はまだこの価値観を磨かなければならない。

技術の研鑽も重要だが、人文学の学習も並行してやりたい。


仕事とは何か。社会における生産活動なのか。(理解し切れていないが) マルクスの述べるところの労働なのか。個人がそのように自覚した活動なのか。目的を持った人間活動なのか。

書き並べたが結論は出なかったな。



「雑記」「雑録」という言葉を思い出した。そういえばこのnoteの投稿は、日記と言うより雑記と表する方がしっくりくるな

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