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【散文】めくるめく知の迷宮

行動制限のない久しぶりのゴールデンウィーク。
行楽地にくり出す人の様子が連日テレビに映し出されている。

けれども我が家では、ゴールデンウィークを目前に夫が陽性になり、ホテル療養となった。
もともとどこかへ遠出するつもりもなかったけれど、私と娘はより一層、自粛気味に過ごすこととなった。

そこで、アマゾンプライムで映画『薔薇の名前』を観ることにした。
私は学生の時に、一度小説を挫折している。
かなりのボリュームな上に、中世ヨーロッパの歴史や宗教背景を知らないと難解で読みこなせない。
娘は自由な校風の高校に行っていたので、世界史の授業で部分部分を見せられて、興味を持っていたらしい。
(女子高生に『薔薇の名前』を紹介する先生、なかなかすごい)

『薔薇の名前』は1327年11月の7日間の物語だ。
ある修道院で起こる連続殺人事件を、元異端審問官のフランチェスコ会修道士・ウィリアムと見習い修道士のアドソが謎解きしていく。
体裁としてはミステリーの形式を取っている。

けれども単なる謎解きだけでなくて、碩学の作者によるさまざまな仕掛けが散りばめられているので油断ならない。
ストーリーのおもしろさもあって、映画は誰でも見通すことができるけれども、細部があれこれ気になって、結局図書館で原作を借りてきてしまった。

そこからが格闘だ。
一度挫折した本である。

以前読んだ、何かの本に書いてあった。
作者のU・エーコは『薔薇の名前』出版前、編集者に「前半が難解すぎる」とダメ出しされたけれど、「物語世界に入るための通過儀礼だ」と頑として譲らず、そのまま出版されたそうだ(うろ覚え)。
文豪の長編小説は、往々にしてそういうところがある。
ストーリーと一見関係ないような饒舌な語りに付き合わされたり、この小説もそうであるように、中世の教会建築の描写が長々と続いたりもする。
そういったものが、小説の醍醐味であるかもしれない。

小説『薔薇の名前』も込み入った時代背景に加えて、通過儀礼がそこそこ長く続く。
が、今回は通り抜けることができたらしい。
その部分を乗り越えたら、割合スムーズに読み進めることができた。
物語の世界観に馴染むためには、必要な通過儀礼であることが、理解できたように思う。
映画を観ていて、流れが頭に入っていたことが大きな助けになった。
若い頃に比べて、中世ヨーロッパの異端について幾分知識が深まったことも、大いに関係しているかもしれない。

それでも解説本を読んだり、YouTubeで中世の解説動画を見たりして、知識を補完しながら進めていく。
知れば知るほど、「なるほどそういうことか」と細部が見えてくるところも多い。
アッシジのフランチェスコのことは知っていたけれども、その後の清貧論争の経緯はあまり知らなかった。
かねがね思っていたことがある。
フランチェスコが列聖されているのに、その後の清貧の思想は異端とされたものもあって、線引きは教会の匙加減じゃないか。
実際、この小説を読むと、その時々で教会の都合によって異端の烙印が押されていく様子がわかる。

ここに作者の一つの問題提起がある。
『薔薇の名前』というタイトルは、唯名論と関係している。
中世ヨーロッパには普遍論争というものがあり、普遍なるものが存在するか否かを巡って、激しい論争が繰り広げられていた。
わかりやすい例では、プラトンのイデアのようなものが事物に先行してある、と考えるのが実在論の立場だ。
対して唯名論では実在するのは個々の事象で、普遍なるものは「薔薇」「人」「犬」のような類としての名前のみだと考えた。

普遍なるものが個々の事象に先立って存在するか否かは、神という普遍なるものをいかに捉えるかに関わってくる問題だ。
このテーマは、近現代の哲学の中にも形を変えて残り続ける。
エーコは記号論者だけれども、もちろん記号学の背景にも唯名論的なテーマが存在していると言うことができる。
そして、異端審問を通して見えてくるのもまた、異端なるものが確固として存在しているわけではなく、ただそれぞれの分派の思想があるという事実だけだ。

エーコはそれを理屈で語るのではなくて、物語として表現した。
ストーリーの中に、緻密に散りばめられている。
『過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、
 虚シキソノ名ガ今ニ残レリ』

という詩句が、物語の最後を飾っている。
この物語の中に薔薇は出てこない。
しかし、このタイトルは直接的にではなく象徴として、この物語全体が奏でているある種の通奏低音を表しているのだろう。





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