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【詩的散文】雲の峰の彼方には

蝉の声は驟雨となって
夏の日差しが作り出す濃い陰影の中を降り注ぐ。

照り返す日差し、夏雲、遠くではじける子供の声。
流れる水にひたす素足、光の網、百日紅の赤い色。
コップを流れる水滴、虫かご、星座早見盤。

ひょう、と風が立つと木々がざわめき、
私を夏雲の向こうへと連れ去る。
あの雲の峰の彼方には、
記憶の淵をかすめては沈んでゆく
いくつもの懐かしい面影があるのだ。

暗い青緑色の沼のおもてに束の間よぎっては消えていく魚影。
遠い遠い記憶の底に眠るいくつもの風景は
ただそこに在る、という気配だけを残して
仄暗い場所をたゆたう。

いつしか嘘のように霧が晴れてクリアになった視界に、
そこに在るものたちは
ありありとした輪郭と、ありありとした色彩と、
ありありとした質感をともなって立ち顕れるだろう。
その日を夢見ている。

夏の夕暮れを見送る私は、いつも置いてけぼりだ。
伸びる影、ざわめく草むら、西の空の妖しい色合い。
こちら側とあちら側の境界線は曖昧になり、
いつも通る木立が、祠が、水路が、知らない顔を見せる。
押し開かれた時空の裂け目を見えないものが行き来する。

さようなら、今日という日。
さようなら、今日を精いっぱい生きたものたち。
夏の日のものぐるおしさの中で、いのちが精いっぱい燃えていた。
暑さで火照った体を横たえると、
やがて眠りの緞帳が幕を下ろしにやってくる。


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