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小説 『長い坂』 第四話

 ジェンダー平等なんてクソだ、ぼくを孤独から救ってくれやしない。

 ポリティカル・コレクトネスなんてクソだ、ぼくを寂しさから救ってくれやしない。

 自由なんて嘘っぱちだ、自由になって孤独というもっと強固な牢獄にぶち込まれる。

 いつも笑顔で、なんて本気で言っているのだろうか?本当にいつも笑顔でいたら、それは立派な気狂いだ。

 愛は欺瞞だ、すぐ消える。

 言葉は空虚だ、嘘を含んでる。

 ぼくはといえば最近は出会いもない。会社の同僚はみんな結婚してしまっているし、不況の影響でここ数年は新入社員の募集もしていない。日本経済全体は滅びへ向かって一直線に駆け抜けている。政治の劣化、個人の劣化、共同体の崩壊、公共精神の喪失、近代合理主義のどん詰まり、新自由主義の極北、理由はいくらだってある。処方箋だって様々な人が提出している。それでもこの国の衰退は止まらない。オフィスで機械的にパソコンを操作しながら、そんなことを考えた。安長さんに呼ばれた。

「ちょっと」
「はい」

安長さんはぼくより年齢が二つ上の先輩だ。よく日に焼けた引き締まった体をしている。趣味はスポーツジムと屋外でのランニング。椅子から立ち上がり、安長さんのデスクに向かう。

「何でしょうか?」
「うん、この間もらったこの資料ね、表の計算が間違ってるみたいで、合計があってないんだ。悪いけど、やり直してくれる?」

安長さんはそう言って、A4の紙の束をぼくに渡した。

「わかりました。申し訳ございません」

ぼくはそう言うと、自分のデスクに戻り、表計算ソフトを開いた。どうやら関数の入れ方を間違ったらしい。該当の箇所を直すと、素早く保存し、印刷にかけた。修正した資料を安長さんに渡すと、ぼくは思索に戻った。

 家へ帰り、本を読んだ。今日は日米関係についての本だ。戦後の日本に、今まで我々が歩んできた歴史に興味があった。1時間ほど読書をすると、眠くなってきたので、外へ出て、コンビニに煙草を吸いに行った。コンビニの駐車場の端にある灰皿の側で煙草を吸っていると、二十代と思しきカップルが腕を組みながら店内に入っていった。ガラス越しに、楽しそうに話しながら酒を選んでいる姿が目に映る。煙を一筋吐くと、煙草を灰皿で揉み消した。日米関係史なんかどうでもいいような気がした。二人だけの世界に閉じこもっていれば、ぼくも幸せになれるのかもしれない。きっと一人だから、余計なことを考えるのだ。ぬるくなった缶コーヒーを飲み干す。私的幸福の前では、知性も学問も無力だ。女の肉体の方が気持ちいいに決まってる。そう思うと虚しさが込み上げてきた。一人であることの不満、一人であることの不安、一人であることの苦痛。一人であるということは、二人になれなかったということだ。

 コンビニを後にした。部屋へ帰って昔の恋人を思ってマスターベーションをした。白濁した液体を見たとき、自分の無力さを思い知った。ぼくは一体何をやっているのだろうか?

 家庭の幸福、そういったものを作ることに幸福を感じる。そういう人間がいることもわかる。あるいは、新しくビジネスを作って、生活世界を変える、それに幸福を感じる、それもわかる。誰かを愛すること、好きな趣味に没頭すること、仕事、スポーツ、セックス、音楽、ドラッグ、夢中になれることはいくらだってある。そういう世の中なのにぼくは、幸せというものを感じられないでいる。というかむしろ、幸せという気持ちがどんなものなのか、わからなくなっている。白濁した液体をティッシュペーパーに包みながら、ぼくはそう思った。やがて黄色くなって固まってしまう無為な精子に、自分の人生を重ねたくなった。射精したばかりだというのに、無性に女性の肉体が欲しくなった。部屋の窓を開けて、欲望を冷やして散らそうとする。向かいのマンションの部屋の明かりが見える。冷たい風が室内に吹き込んでくる。学生のころは学生のころで大変な人生だと思っていたが、今から考えると、学生のころの方が幸せだった。仲間がいて、短期間だけれど恋人がいて、くだらない話もたくさんできた。もしかしたら幸せというものは、過去の中にしかないのかもしれない。

「今が一番楽しいなんて嘘っぱちだ」

気がつくとそう呟いていた。季節は春へと入ろうとしていた。桜が咲くころには、ぼくの人生ももっとマシなものだと思えるようになっているだろうか?そんなわけがないだろう、胸の奥で誰かが呟いた。窓を閉めて眠ることにした。

 愛も恋も希望も幸福も、過去と思い出の中にだけしか存在しなかった。

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