『一庶民の感想』 6 幸せな顔と一人でいることの技術

 ゴールデンウィークだ。外は子連れやカップルで溢れている。彼ら、彼女らの顔を見ていて、気がついたことがある。愛し、愛されている人間の顔は輝き、そして幸福そうであるということである。何とも形容し難いことだが、愛し、愛されている人の顔には険がない。表情の奥から滲み出てくる陰のようなものがない。その表情は適度に弛緩し、温かみに溢れている。ほのぼのとしている。

 一方で自分の顔を鏡で眺めてみる。険がある。陰がある。目が暗く、表情は緊張し、眉が少し吊り上がっている。愛し、愛されている人の表情とは対極のような顔をしている。

 ぼくは10年以上恋人がいない。人生で女性と付き合った期間を合計しても、それは2ヶ月にも満たない。『人生は闘争である』、ニーチェの言葉だ。ぼくの拙い人生経験からいっても、同意する。その闘争という人生のほとんどの期間を、ぼくは一人で過ごしてきた。親に甘えられる年齢を過ぎ、何とか自立しようと踏ん張ってきた。そうやって何かと戦っていたら、ぼくは一人になった。支えてくれる人が欲しいと何度思ったことだろうか。寂しくて、辛くて、泣いた夜も幾たびもある。しかしそれとは逆に、時の流れは無情にも色々なものを変化させた。友人との関係も、それぞれのライフスタイルに合わせて変化した。学生のころみたいに、長い時間一緒にいることなど不可能になった。友人たちにも家族ができた。

 無常なる時の流れは、ぼくの願いとは裏腹に、ぼくから支えてくれるものをひとつずつ取っ払っていった。変化した友人との関係、失恋によって失ったもの、希望、現実、無才覚、金がないこと、獲得された余計な個性…。

 そんなこんなでぼくは、七転八倒、悪戦苦闘、無様に無様を重ねて、何とか一人で立っていられるようになったわけである。無常なる時の流れが、支えるものなしに、ぼくに一人で生きる技術を授けたのである。『無頼とは、支えるものなしということだ』、伊集院静先生の本に書いてあった言葉だ。大学生のときにその伊集院先生の本、『無頼のすすめ』(新潮新書)を読んだ。そして、ぼくも無頼になろうと思った。少しは伊集院先生のおっしゃる無頼に近づけただろうか?

 しかし何ということだろう。一人で立ち続けることの何と大変なことか。顔や体に力を入れ続けていないと、すぐに倒れてしまいそうである。

 顔に険と陰ができて当然なのかもしれない。自主独立とは生優しいものではない。

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