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小説 『長い坂』 第三話

 日本の戦争についての本を読んだ。ビジネス書や自己啓発本は、30代に入ってから読まなくなっていた。意味がないと気付いたからだ。それらの本は200ページを使ってたった一言、悩んでないで元気を出せ、とそう言っていた。うんざりだった。悩むなというのは、心を消せというのと同じことだった。だからきっとビジネスマンは禅が好きなのだろう。ぼくは馬鹿だから悩んでしまうが、利口で高級取りのビジネスマンは全く自分のやっていることに疑いを持たないのだろう。ぼくの給料は彼らの半分以下で、側にいてくれる女性だっていないけれど、それでもぼくは利口にだけはなりたくなかった。

 いつものように仕事をして、いつものように家に帰った。季節は冬だから外気が寒い。ビジネスバッグから鍵を取り出し、玄関の扉を開ける。部屋の中の空気も冷んやりとしていた。部屋に入り、電気をつける。バッグを置いてネクタイをとってスーツと外套を脱ぎ捨てた。掃き出し窓から隣のマンションの明かりが見える。ぼくの生活には他者がいない、どこまで行ってもぼく一人きりだ。ふとそう思った。家庭をつくる幸福、他者と寒い夜に互いを温めあう幸福、一緒のものを見て、会話をして、笑いあう幸福、そういう幸福からぼくは最も離れたところにいる、そう感じた。キッチンに備え付けの一口ガスコンロに水を入れた薬罐を乗せて、湯を沸かす。カップラーメンをつくって食べた。昔のことを思い出した。一度だけ恋人と一緒に鎌倉へ行った。あちこち観光をして、美味しいものを食べて、他愛もない会話をして、二人で電車に乗って帰った。たったそれだけの思い出が強烈に懐かしかった。あれから10年、ぼくは一人で今とほとんど同じ生活を繰り返してきた。学生だったころの勉強が社会人になってからは仕事に変わっただけだ。中身は何も変わらない。あの日鎌倉でぼくは何かをなくしてしまったのかもしれない。それが何かわからないまま、ぼくは今まで生きてきた。鎌倉に行った後すぐに、ぼくはその恋人と別れてしまった。理由はよくわからない。たぶん向こうの方がぼくに魅力を感じなくなったのだろう。ぼくも相手も大学生だった。別れ話はスマートフォンのメッセージアプリでさっさと片付いた。でも、失ったものは戻ってこない。

 カップラーメンを食べ終えて、スマートフォンにイヤフォンを差し込んで、斉藤和義とthe brilliant green の音楽を聞いた。涙がこぼれそうになった。誰かに側にいて欲しい、痛切に、切実にそう思った。昔のことを思い出すからいけない、そう自分に言い聞かせても、あとからあとから思い出は頭の中を駆け巡った。心臓が冷えてゆく、指の先まで凍えるようだ、心の奥から言葉が湧き上がってくる。上着を着て外まで煙草を吸いにでかけた。海の底のような夜だった。コンビニの外にある灰皿の横で、ぼくは叫びだしそうになった。

 煙草の灰でズボンが白く汚れた。

 再び会社に行って仕事をした。昨晩はよく眠られなかった。仕方がないからコンビニで缶チューハイを買って、それを2缶飲んで寝た。アルコール度数9%の比較的酔いやすい酒を選んだ。甘味料の甘い香りと味、アルコールの苦さ、そういうものが口と胃の中に広がり、何ともいえず不快だった。それでも飲まなければ眠れそうになかった。夜中に何度か起きた気がする。記憶がぼんやりとして曖昧だが、何度かキッチンへ水を飲みに行った気がする。うがいをするときに見たシンクの中の小さな排水口だけが、鮮明に記憶に残っている。現実が悪夢なのか、単に悪夢を見たのか、夢と現実の境が曖昧でよくわからなかった。ただ、目が覚めたときにぼくはびっしょりと汗をかいていた。体を拭いてスーツに着替える。洗面をして、外套を着て、外へ出た。朝食は食べなかった。

 仕事が終わり家路につく。高円寺駅からの帰り道、何気なくスマートフォンを確認すると、中学校以来の友人からメッセージが入っていた。昨日の夜遅く、彼の妻が出産をしたそうだ。母子ともに健康で、産まれたのは男の子であること、子供の名前、それと3人で撮った写真が添えられてあった。嬉しそうに微笑む彼と奥さんと小さな子供、おめでとう!母子ともに健康で本当によかった!ぼくはそうメッセージを打ち返した。そうしてコンビニで缶コーヒーを買って、煙草を吸った。西村賢太の小説の中に彼の師である藤澤清造の言葉が引かれてある。曰く、

「いつまでこんな生活が続くのだろう」

煙草の煙を見ながら、この言葉を思い出していた。

 部屋へ着いて電気を消したままベッドに寝転がり、『フライディ・チャイナタウン』とネクライトーキーの『オシャレ大作戦』を聞いた。どちらも4.5年くらい前によく聞いていた曲だった。子供の産まれた友人のことを考えた。4.5年くらい前は彼とよく飲みに行ったものだった。新宿や中野の安酒場でよくビールを飲んだ。その頃はたしか、彼は彼の奥さんとなる人と付き合うかどうか、というところだった。酒場で彼の話を聞いて、背中を押したのはぼくだった。

「付き合いなよ、いい子だよ」
「うん、そうだな」

彼は最後にはそう言って、にっこりと微笑んだ。何故だかその笑顔を思い出した。

 とてつもない寂しさに襲われた。


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