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短編小説 『スローに、ブルースでしてくれ』

 恋を殺した。私は罪人だ。私の中の恋を殺した。私は殺人犯だ。恋愛を葬った。私は、私は…。

 クラクションの音が聞こえる。大型トラックだろうか。しきりに鳴っている。何がトラックの邪魔をしているのだろうか。ここからだと判然としない。新宿の道路も路上も渋滞だ。いろんな店の電光看板と、夥しい数の自動車。夜に光が飽和して、街行く人々の足元に影をつくる。人声、野良猫、酔っ払い、黒いスーツ、ピーコートの学生、生脚を見せる若い女、浮浪者、鼠、蠅の死骸。水溜りに煙草の吸い殻が浮いている。夜空を見上げると、黒の中にうっすらと雲が見える。空と地上の境界には薄ぼんやりとした白い靄のような明かり。俺は歩けずにいる。酒に酔った頭で銀行預金の残高を数える。俺は立ち止まっている。コンビニの前で昔の女のことを思い出している。ここからすぐ近くのラブホテルで抱いた、年増の風俗嬢の名前を思い出そうとする。固くなった自分の乳首の感触。大学生のころ、友人の部屋のベランダで吸ったマイルドセブンの味。親友の結婚式。弟のまだ小さな子供二人。読みかけの『グレイト・ギャッツビー』が、俺の持っている黒いビジネス用の鞄の中に入っている。aikoの歌のようにはいかなかった数々の俺の恋愛たち。俺はそいつらのために、そいつらの魂のために、今日ここで恋を殺した。俺は今夜、新宿の街に恋を殺しにきたのだ。そしてそれはどうやら成功したようだった。

 人々が列をなしている。人垣の向こうに、パトカーと救急車の赤灯が見える。ざわめく路上。ドンキホーテの明かりがぎらつく人々の眼を照らしている。どぎつい香水の匂いがする。匂いの方向に眼を向けると、俺の横に派手な男女が立っていた。香水の匂いはその二人から立ち上ってくる。

女「なんだろう?」
男「パトカーと救急車がとまってるね」
女「ね、こわっ、なんなんだろう、事件かな?」
男「事故かも」
女「ねえ、見に行ってみようよ」
男「めんどうだな、混んでるし」
女「いいじゃん、いいじゃん、なんか面白そうだし」

男と女は人混みをかきわけて、パトカーと救急車の方へと向かった。きつい香水の匂いがまだ残っている。サラリーマンらしき男が携帯を見ている。ドラッグクイーンを思わせる濃い化粧をした背の高い男が、携帯を見ているサラリーマンの横で、苛立たしげに前方を見つめていた。ドラッグクイーンの男の肩幅は、ラグビー選手くらい広かった。渋滞はまだ解けそうにない。

 混み合う路上で赤灯が回り続けている。まだ動けそうにない。回想。


シーン1:動き続ける不器用な男たち

 窓明かりが虚しく降り注ぐ。ワンルームのアパートの一室で、隣人のセックスの地響きを聞きながら、天井を見ていた。ベッドに仰向けになった身体。窓から差し込む夜の街灯と、生ぬるい隣人の気配。壁の向こうから、ベッドが軋み、喘ぐ音。人を好きになった。人を好きになった。人を好きになった。何度も何度も、そう呟いた。人生で初めてできた恋人には、二週間で振られてしまった。相手には男がいた。私とは別の男が。人を好きになった。人を好きになった。人を好きになった。そのことがあってから、9年が経った。人を好きになった。人を好きになった。人を好きになった。女は逃げてゆく。繋がる気配をみせたかと思うと逃げてゆく。タンポポの花のような幸せ。苦い焼酎のような後悔。手を伸ばしても届かない。理由もわからない。ただ、何度も何度も何度も何度も何度も逃げてゆく。逃げてゆく。月明かりが瞼の裏で泣いている、鳴いている。

 深い自責の念と無意味な分析。改善という名の虚無が押しつぶす。いくらやっても届かない、昔の恋人がくれた携帯灰皿。コンビニのゴミ箱にその携帯灰皿を捨てたとき、それと一緒に本当に大事な何もかもを捨ててしまったのだろうか?スマートフォンの画面の中で、異様に白い歯が笑っている。対抗不能な、愚にもつかない、成功者の意見、したり顔。動画のこちら側では、敗者にすらなれなかった凡庸な自分が、妬みも通り越して、ただ空虚に、眺める。敗者、勝者、明るさというファシズム。不器用な男たちが、天井のシミのように動き続けている。女たちに虐げられて。隣室のセックスの音が止まった。壁の向こうで小声でしゃべる声が聞こえる。くぐもった、甘い囁き。何を言っているのかまではわからない。鳥の囀りのような二人の声が、天井のシミのあたりを飛んでいる。スマートフォンで時間を確認した。深夜3時を過ぎていた。俺は思った。この仕事、新卒で入った今のこの仕事を辞めてやろう。明日から俺は放浪者だ。それでもこの部屋の中よりはマシだ。

シーン2:後悔

 昔の恋人のことを思い出す。最近はそんなことばかりだ。昔、昔、少しだけお互いがお互いに好意を持っていたころ。それが事実として存在していた時間帯。その僅かな数週間を、俺は何度も繰り返して思い出していた。新しくはじめた仕事も、うまくいっていなかった。労働から帰ってきて、新しく借りた古いアパートの一室で、冷めた弁当と安い酒を飲む。それが延々と繰り返される。友達の人生は変わってゆく。家族、恋人、俺の停滞と反比例するかのように、周りの友人たちは変わってゆく。変わらないのは俺だけだ。どうあがいても変われない。どうあがいてもこの渦と連鎖の中に、つまり安酒と冷えた弁当と孤独の円環の中に、舞い戻る。宿命、煙草を吸いながら、そんな言葉が口をついた。昔の恋人の顔が思い出せない。押し入れにしまったまま、ほったらかしにされていた卒業アルバムみたいに、過去が胸に突っかかる。潤い、幸福、今の俺から最も遠い言葉だ。外は夜、よく晴れた夜だ。深夜工事の音が聞こえる。作業員が赤くひかる棒を振っている。ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆら。憂鬱が部屋に蟠っている。

シーン3:愛される気あんの?

 金魚鉢の中に金魚が一匹。高円寺の場末のラブホテルで、彼女を待つ。薄暗い室内には、破れた人口革のソファと四隅の欠けた燻んだ焦茶色の木のテーブルが一つある。どこかでレコードが鳴っている。聞いたことのある曲だ。題名がどうしても思い出せない。アンニュイでエモーショナルで気怠い音楽。バスルームから水滴の音がする。ぽたぽたと垂れる雫。ユニットバスの床に水滴のあたる乾いた音。ゆっくりと期待が死んでゆく。夢の中で蝶が飛んでいる。幼い頃に見た黒揚羽だ。夢を見ることくらいしか、できることがない。テーブルの上にはガラスの灰皿が一つ。4本の煙草がそのなかで燃え尽きている。いくら待っても彼女はやってこない。そのうち、時間の感覚がなくなってきた。ここはどこだ?今、何時だ?バスルームの水滴の音だけが、時の経過を知らせている。ぽたぽたぽたぽた。電源の入っていないエアコン、無音で佇む液晶テレビ、湯を沸かす白いポットがテレビ台の横のテーブルに無造作に置かれている。無音。微かに埃が舞っている。自分も彼女も、愛される気があるのだろうか。


 人波の向こうで動きがあった。道路脇の古びた雑居ビルから担架に乗った人間らしきものが運びだされたようだ。その様子が情報が、人から人へと伝えられて、俺のまわりの人々の口で再生産、再拡大されている。担架で運ばれたのは老婆だそうだ。その高齢の老婆は、死期を悟り、雑居ビルのくすんだ部屋で自らの身体を焼こうとしたようだ。灯油を被った老婆はマッチで身体に火をつけようとしたその瞬間、絶命した。赤灯が回り、老婆が呟く。その声は人声にかき消されて誰の耳にも届かない。

 動きだした。人波が徐々に前へと進んでゆく。俺は一人立ち止まったままだった。

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