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『一庶民の感想』 3

 自分の話を書く。日常生活において、疲労が蓄積したり、何か嫌なことがあったりして、もうこんな世界はうんざりだ、誰とも会いたくないし、誰とも話したくない、いやむしろ死んでしまって、新しい世界に行きたい、そう思うときがある、度々ある。そんなとき決まってぼくは、過去の恋愛を思い出す。当時は嫌なこともあったはずなのに、恋人との僅かな思い出を何度も思い出して反芻して、嗚呼、あの頃は少なくとも今よりは幸せだったなあと思う。恋人の肉体の記憶も思い出す。

 大人になってぼくは、得をしたと思ったことが一度もない。子供の頃や学生の頃の方がいい思いをしていたし、幸せだったと思う。現に30歳を越えてからは孤独になるばかりだ。20代と30代の孤独は少し違う。前者は焦燥感の末の孤独であり、後者は置いて行かれてしまったという感情から生まれる、取り残された孤独である。結婚、出産、転職、周りの友人たちがどんどん変わっていくのに、自分は何も変わっていない。相変わらず恋人もできないし、結婚なんてもってのほかだ、やっている仕事も趣味も行きたいと思う場所も貯金の額も、何も変わらない。そう感じたときに残るあの寂寞の情、30代の孤独とはきっとそういうものだ。

 自己啓発本も筋トレもポジティブ思考も運命も、何の役にもたたない。ただ目の前で時と人が移り変わっていく、それを自らの身が朽ち果てるのもわかっていながら、ただ黙って眺めているしかないあの感覚、自分が全くもって一つの彫像と化してしまったようなあの感覚、それが今のぼくを悩ます感覚だ。

 未来に対してなんの希望も抱けないとき、ぼくは過去へと逃れる。優しくて温もりがあって、愛があったかつての一瞬、その思い出の中へと逃避する。もちろん何の解決にもならないことはわかっている。でも、そうせざるおえない。そうしないと何かに潰されてしまいそうになる。

 現実に逃げ場がないとき、ぼくは虚構へと逃げる。脚色された思い出も、温かい妄想も、そばに誰もいてくれないとき、そんなときには有効だ。

 他者の温みが狂おしいほど必要なとき、そんなときでも平然とこの世界はぼくを一人にする。

 枕を涙で濡らして、それでも何故か生きている。

 現実に逃げ場がないからぼくたちは、頭と心の中に逃げ場所をつくっている。

 希死念慮から逃れるために逃避せよ!夢と希望と期待から遠く離れるために逃避せよ!何者にもなれず、何者にも選ばれない自分が唯一自分のためにつくった、自分を受け入れてくれるところ、それが自らの心の中にある。

 自分で自分を慰めて、またうんざりするような外界へ出ていかなければならぬ。だから、誰にも侵されない、自分の逃げ場所くらい自分の中に持っていたって誰人が文句を言えようか?

 運命は強固で、たった一人でこの先も歩んでいかなければならないのなら、肉体の代わりに精神を、他者からの愛情の代わりに言葉を信じていかなければならない。

 それが唯一残された生きる道である。

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